アヘン商人:ジャーディン・マセソン&カンパニー/ラッセル・アンド・カンパニーとスカル・アンド・ボーンズ
8213文字
1.ジャーディン・マセソン&カンパニー
概要
前身はイギリス東インド会社で元は貿易商社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、清(中国)の広州(沙面島)に設立された。中国語名は「怡和洋行」。当時、広州は広東システム体制下、ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。
ジャーディン・マセソン商会の設立当初の主な業務は、清(中国)で販売が禁止されていたアヘンを、インドから清に密輸して、清で生産された茶をイギリスへの輸出することだった。ジャーディン・マセソン商会はイギリスのアヘン商人(アヘン密貿易商)の一つ。
1840年に、多数のアヘン中毒患者であふれた清と、清へのアヘン密輸と販売で巨額の利益を得ていたイギリスとの間でアヘン戦争が始まると、本社を当時無人島だった香港に移した。アヘン戦争後に設立された「香港上海銀行(HSBC)」は、ジャーディン・マセソン商会などイギリスのアヘン商人が、清でのアヘン密輸・販売で得た利益を香港からイギリス本国へ送金する業務をおこなっていた銀行である。
1840年から2年間にわたるアヘン戦争では、ジャーディン・マセソン商会は清でのアヘン密輸の利益を守るべくイギリスでロビー活動を行い、イギリスの国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。結果、アヘン戦争はイギリスの圧勝に終わり、1842年に南京条約が締結され、この事実上の不平等条約で、香港はイギリスのものとなり、さらに清はイギリスに対して賠償金2,100万$を4年分割で支払うこととなった。ジャーディン・マセソン商会は、従来通り、清でのアヘン販売を続行できることとなった。
幕末・明治期の日本における歴史
かねてより沖縄や台湾、長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易していた同社は、江戸幕府が1853年の日米和親条約を皮切りに、1854, 1855, 1856年と立て続けに日英、日露、日蘭和親条約を締結し、長崎港と函館港を開港すると、1859年(安政6年)に、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)を日本に派遣した。ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入、ビジネス的には成功とは言えなかったが、日本製絹の品質の高さに将来性を抱き、1860年初頭に、横浜居留地1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立した。
長崎居留地ではデント商会に先を越されたが、横浜でその仇を返した形となった。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を務めていた。
鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。
ウィリアム・ケズィック
ウィリアム・ケズウィックはケズウィック家の創始者。スコットランドローランド地方生まれ。ジャーディン・マセソン商会を創設したウィリアム・ジャーディンの姉の娘の子。1855年に香港に到着し、ジャーディン商会上海支店(中国本店)で働く。
1859年(安政6年)、日米修好通商条約締結後に開港した横浜にジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)を設立。1863年(文久3年)、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑(長州ファイブ)のイギリス留学を支援した。
長州ファイブ
概要
駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、アヘン商人のジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、トーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らの協力を得て成し遂げられた。イギリス留学中は、アヘン商人のジャーディン・マセソン商会創業者の一人ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン (企業家)(マセソン商会社長、ジャーディン・マセソン商会取締役)が世話役となった。
この5名はロンドン大学において長州ファイブ(Choshu Five)として1993年に顕彰碑が建てられており、そのことを知った西日本国際交流推進協会が「地元にも顕彰碑を」と運動した結果、2003年に山口市に顕彰碑が建てられた。
その碑文では、井上馨は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、井上勝は鉄道の、それぞれ「父」とされている。その顕彰碑は、秋穂二島の山尾庸三生家近くに設けられたものの、山口市立二島中学校の敷地内を経て、山口市新山口駅の南口に移設された。また、2006年に山口大学構内にも記念碑が設けられている。
でも、お金の向きはバラバラだと思うのでタイトルは「アヘン商人と明治維新の関係!」の方が良い気がする。
2.ラッセル・アンド・カンパニー
⭕️真珠湾攻撃の父:第32代大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトはラッセル・アンド・カンパニー側のアヘン商人の家柄。
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