戦後:日本国憲法の誕生(Birth of the Constitution of Japan)
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他の記事を書いていて、ふとポツダム宣言を確認したくなったのだが、ポツダム宣言でさえ読めないようにされている事に今、気づいた!ヽ(`Д´)ノプンフ
ポツダム宣言(外務省訳、原文)
🇯🇵天皇の国は高尚そうな文で読めないようにし、国民を無知にし、デマを真実にする国!💢
英語でポツダム宣言があった。ポツダム宣言だけでなく日本国憲法が出来た過程の情報があるサイト。全部は翻訳できない、気になる情報をつまんで翻訳した。飛び飛びだが、それでも日本ではなかなか手に入らない情報だと思う。多分、憲法改正反対専門に騒いでいる人でも知っている人少ないのでは?
といいつつ、このblogの戦後改革の日本国憲法の制定の情報とても良い。ワシはが翻訳した英語の情報ともあっているし、こちらはコチラで重要な情報がある。
Birth of the Constitution of Japan
日本国憲法の誕生
ポツダム宣言
Potsdam Declaration
1945年7月26日、ポツダムで発布された日本の降伏条件を定める宣言
1.我々、アメリカ合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国首相は、数億の国民を代表して協議し、日本にこの戦争を終わらせる機会を与えることに同意する。
2.アメリカ、イギリス帝国、中国の膨大な陸海空軍は、西側諸国の陸軍と航空艦隊によって何度も増強され、日本に最後の打撃を与える態勢を整えている。この軍事力は、日本が抵抗をやめるまで戦争を遂行するというすべての連合国の決意によって支えられ、鼓舞されている。
3.世界中の目覚めた自由な民衆の力に対するドイツの無益で無分別な抵抗の結果は、日本国民に対する恐ろしいほど明白な例となっている。現在日本に集中している力は、抵抗するナチスに適用されたときにドイツ国民全体の土地、産業、生活様式を必然的に破壊した力よりも計り知れないほど大きい。我々の決意に支えられた我々の軍事力の完全な行使は、日本軍の不可避かつ完全な壊滅と、同様に必然的に日本本土の完全な荒廃を意味する。
4.無分別な計算で日本帝国を滅亡の瀬戸際に追い込んだ、わがままな軍国主義顧問団に今後も支配されるのか、それとも理性の道を歩むのか、日本が決断すべき時が来た。
5.以下は私たちの条件です。私たちはこれらから逸脱することはありません。代替案はありません。私たちは遅延を許しません。
6.日本国民を欺き、世界征服に乗り出すよう誤導した者たちの権威と影響力は永久に排除されなければならない。なぜなら、無責任な軍国主義が世界から駆逐されない限り、平和、安全、正義の新しい秩序は不可能であると我々は主張するからである。
7.そのような新しい秩序が確立されるまで、また日本の戦力が破壊されたという説得力のある証拠が得られるまで、連合国が指定する日本領土内の地点は、我々がここに示す基本目標の達成を確実にするために占領されるものとする。
8.カイロ宣言の条項は履行され、日本の主権は本州、北海道、九州、四国および我々が決定するその他の小島に限定されるものとする。
9.日本軍は、完全に武装解除された後、平和で生産的な生活を送る機会を得て、各自の家庭に帰還することを許可されるものとする。
10.我々は、日本人を民族として奴隷化したり、国家として滅ぼそうとは考えていないが、我々の捕虜に残虐な行為を行った者を含め、すべての戦争犯罪者に対しては、厳正な処罰が下されるものとする。日本政府は、日本国民の間に民主主義的傾向が復活し強化されることを妨げるあらゆる障害を取り除くものとする。言論、宗教、思想の自由、および基本的人権の尊重を確立するものとする。
11.日本は、自国の経済を支え、正当な現物による賠償の請求を可能にする産業を維持することが認められるが、戦争のために再軍備を可能にするような産業は認められない。この目的のため、原材料の入手は、管理とは区別して許可されるものとする。最終的には日本が世界貿易関係に参加することが認められる。
12.連合国の占領軍は、これらの目的が達成され、日本国民の自由に表明された意思に従って平和志向で責任ある政府が樹立され次第、日本から撤退するものとする。
13.我々は日本政府に対し、ただちに日本軍の無条件降伏を宣言し、その行動に対する誠意を適切かつ十分に保証するよう要求する。日本にとって、それ以外の選択肢は、迅速かつ完全な破壊である。
(外務省『日本外国年表に関する修養資料:1840年~1945年』第2巻、1966年)
はじめに
Preface
日本国憲法は、日本国外と日本国内の両方の努力が結集して制定されました。
大日本帝国憲法(1889年明治憲法)を改正しようとする外発的な力は、連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)の下で、敗戦時に日本が受諾した「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置として現れた。戦時中の軍事的統制が明治憲法の骨格を著しく腐敗させたため、戦後、単に戦前の議会制を復活させるだけでは不可能であった、真の民主主義を実現したいという国民の願望から生まれたものである。
憲法制定の歩みは、1946年2月13日に大きな節目を迎え、大きく2つの段階に分かれた。第1段階は、1945年10月に日本政府が最高司令官会議(SCAP)の「憲法の自由化」の提言を受けて、明治憲法の見直しの検討を開始し、1946年2月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に改正案(憲法改正要綱)を提出した時点まで続いた。第2段階は、2月13日にGHQが一転、日本政府の改正案を拒否し、代わりにGHQがひな形として作成した草案(GHQ草案)を提出した時点まで続いた。これを機に、新憲法の制定・公布へと道筋をつけた。
このように、明治憲法の改正のこの二つの大きな段階を通じて、国内外で多様な政治的、社会的、その他の力が複雑に作用し、日本国憲法の制定につながった。
第1部 軍事的敗北と憲法改正への取り組み
Part 1 Military Defeat and Efforts to Reform the Constitution
日本占領政策の策定
太平洋戦争開戦直後、アメリカ合衆国政府は国務省を中心に対日戦後政策の検討を開始した。国務省の一部の日本専門家は、とりわけ天皇制を維持する寛大な戦後戦略を構想していた。しかし、陸軍省と海軍省の一部は、天皇制の廃止と広範な経済改革を含む大幅な変更を提案した。この両者の対立は根強く、国家・海軍間調整委員会 (SWNCC) などで対立した。政府の指導者たちはその問題を解決しようとした。最終的に、連合国は1945年7月26日のポツダム宣言で、占領政策は日本政府を通じて遂行されるが、天皇制については明記しない方針を決定した。
ポツダム宣言の受諾と占領の開始
日本政府は、米国、英国、中国が署名したポツダム宣言を無視していた。しかし、広島と長崎への原爆投下とソ連の参戦により、8月14日にポツダム宣言が受諾され、第二次世界大戦は終結した。 敗戦により日本は連合国軍の占領下に置かれ、ポツダム宣言を履行する絶対的な権限を与えられた連合国軍最高司令官 (SCAP) ダグラス・マッカーサーの指揮の下、事実上アメリカが占領をし支配した。
日本政府はポツダム宣言を受諾する一方で、「国体」を擁護・維持するために天皇の統治権の保持を条件に要求した。しかし、ポツダム宣言は「平和志向で責任ある政府を樹立する」「民主主義的傾向の復活と強化」「基本的人権の尊重を確立する」ことを要求していた。これらの規定の導入により、明治憲法の根本的な改正は不可避となった。
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