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ステージ・マザー
思い返せば、自分が「ドラァグクイーン」なる言葉とその存在を知ったのは、映画『プリシラ』(1995・豪)を観てからだった。ゲイカルチャーの住人たちが、砂漠のリゾート地を目指し、オーストラリアをバスで縦断するロードムービー。ド派手な衣装とメイクで着飾ったドラァグクイーンと、壮大な自然とのコントラストが印象的で、スクリーンを支配する色彩の美しさと軽快なディスコ・ソングに心奪われた。
ドラァグクイーンの一人を演じたヒューゴ・ウィーヴィングはのちに、『マトリックス』でエージェント・スミスとして登場。『プリシラ』とのあまりのギャップに心底驚いた。そのうち煌びやかな衣装を纏い、熊手のような睫毛をバサバサと揺らしながら、キアヌ・リーブスと戦うのではないかと、良からぬ妄想も抱いてしまったほどだ。
本作『ステージ・マザー』は、『プリシラ』公開から四半世紀以上経過している。その間に、性的マイノリティに対する理解は、どこまで進んだのだろうか。今では、海外コンテンツのそこかしこに、当たり前のように同性愛者および性的マイノリティの人々が存在する。同性愛といえば、物語のテーマそのもので、どこか特別な存在として扱われていたことを考えれば、隔世の感がある。教育を含めた社会運動の成果が、着実に実を結んできたのだろう。
人目を憚らず、露骨に差別やいやがらせを行う場面は、さすがに減ってきていると思う。しかし『ステージ・マザー』のように、ごく身近な存在である自分の子どもが性自認の問題を抱えてしまった場合は、また話はちがってくるのだ。理解しようとしても、偏見や差別の意識がむくむくと頭をもたげてきて始末に負えない。ここで重要なのは、生活環境や地域が大いに影響するということ。個々人の宗教観も絡んでくるから余計にややこしくなる。
保守的な考えが主流を占めるテキサス州と、少なくとも同性愛者に一定の配慮が進んでいるアメリカ西海岸・サンフランシスコ。主人公・メイベリンの息子のリッキーが、自分らしく生きるために、テキサスからサンフランシスコに移り住んだ選択を、誰も咎めることなどできない。
メイベリンはある日、絶縁状態だったリッキーの突然の死を知る。夫の反対を押し切り、葬儀に参列するためサンフランシスコに向かうメイベリン。ドラァグクイーンとして自らステージに立ち、ゲイクラブ「パンドラズ・ボックス」の経営にも携わっていたリッキー。最愛の息子が、懸命に生きた証の一つひとつが、メイベリンの抱えていた葛藤をゆっくりと確実に溶かしてゆく。ほどなく「パンドラズ・ボックス」の共同経営者となったメイベリンは、傾きかけた息子の忘れ形見を、持ち前の“お節介なオカン”パワーで立て直し、自らも生きがいを見つけるまでに至る。リッキーが育てたクイーンたちの影響で、口紅も明るくなったメイベリン。その表情は若々しい。そして何より、愛らしくてチャーミング。
映画ラストのステージが見事だ。メイベリンとリッキーがあのような形でシンクロするとは思わなかった。ボニー・タイラー、1983年発表の名曲「Total Eclipse Of The Heart」(邦題・愛のかげり)にのせてリッキーが甦ってくる演出は、涙なしでは観られない。親子愛がフルスロットルで駆け巡る。このシーンだけで名画の仲間入りだ。ロック・ミュージカルの金字塔『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2002・米)をも彷彿とさせる。
ちなみに、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』もゲイカルチャーに根差した映画で、全編オリジナルのロックナンバーで構成されている。どの楽曲も出色で、映像だけでなくサントラも聴き応え十分。ロックファンの琴線もぐいぐいと刺激してくる。とにかく、総合芸術として非常にハイレベルなのだ。『ステージ・マザー』の舞台に心揺さぶられたなら、ぜひ『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』にも手を伸ばしてもらいたい。
他人への不寛容を、少し寛容のほうに振るだけで、世の中の見方は変わるし、自分の生き方も変わる。「LGBTQ+」を取り扱う映画を観るにつけ、毎回教えられる“人間の真理”に、今回も只々平伏するしかない。