[ひと口キロク]ヒトの目が怖いという思いこみ
人にどう思われているか、なんてどうでも良いんだよね。
と口にする人は多い。
わたしもそう。
他人にどう思われても、それが自分のアイデンティティの表現方法であれば、なんでもいい。
それを押しつけはしない。
自分のポリシーとして持っているもの。
きれいごと言っても、実はヒトの目を気にしているわたしがいる。
ちゃんと「言語化」しないといけない、と思い込んでいる。
誰かに説明できるようにしないといけないと思い込んでいる。
なんでメキシコにいるの?
なんで日本に帰ってくるの?
なんでカメラが好きなの?
なんでスペイン語が話せるの?
なんでスペイン語を勉強したの?
なんで今日はスカート履いてるの?
なんであの人をフォローしてるの?
なんでなんでなんでなんでなんでなんで。
聞かれたことのある質問たち。
もちろん、自分のなんとなくの行動や、自分の欲にはすべて理由があるのかもしれない。
それを誰かに説明することも嫌いじゃない。
たぶん人は自分のことを話すのが好きなんだと思う。
たまに自分の行動を整理する上でも、内面的なことはきちんと言語化した方が、自分の将来の行動の一貫性を確認することができるのでいい。
ただ、言語化する必要がないのは、外見に対することだと思う。
髪の毛切ったって、いつもと違う服を着たって、いつもと違うメイクであっても、服があなたの考えとはそぐわなくても、マスクをつけていない写真をSNSに投稿したとしても「あなたに影響ありますか?」と返答したらすべて解決する。
外見が「一般的に」変わっていても、人を傷つけることはないし、メデューサじゃないんだから死なない。
でも、実際はちゃんと答えを用意してしまう。その回答を作ることに悩むし、説明が難しかったり、「どうせわからないだろう」と思ってしまって、モヤモヤすることがよくあるんだけど。
「XXと思われたい」という願望がひっそりあるから。
少しでもよく思われたいと思っているから。
どう思われているかを気にしてしまう。内面のことも外見のことも。
メキシコではあまり気にしなかった。
見た目もそうだし、Facebookのタイムラインは誰も気取ってない。
ミームや日々の写真をリラックスして投稿している。
もし、人の目が気になりすぎて息苦しいなら、海外に住んでみることが1番の療法かもしれない。
さて、なんでこんなことを思ったのかというと、SNSの誰かの写真の投稿を見ていると(日本人だけなのかわからないけど)、「この写真ではマスクをつけていませんが、コロナ対策は万全の上で、食事以外ではマスクを着用しておりました」と何かを弁明するように書いている人が結構いる、と思ったから。
ドキッとした。
なぜなら、わたしは何も気にせずに、普段の写真をアップしているけど、そんな文言、書いたこともなかったし、批判する人がいそうなことをやっているから。
ただ、自分のまわりは「やさしい人」が多いのかもしれない。
そっと無視してくれているだけなのか、それとも何とも思っていないのか。
人の目を気にせずに自由に生きていたい自分主体の面と、人の目を気にして同調しようとする社会的な面。
共和党と民主党のように、合い入れないのかもしれないけど、真ん中に立ってバランスよく生きることを選択する。
だって、結局他人がいないと自分は存在しえないから、ちゃんと社会的なものも守る。
自己と他者。
人にどう思われているかをまったく気にしないのもよくないし、気にしし過ぎるのもよくない。
居心地の良さとは、一体。
そんなことでさえも、嘘であると思いこめば、気が楽になるのかも。
おわり