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メキシコの国際女性デーのデモに参加して

ダイゼン です。3月8日は国際女性デーでしたね。
メキシコでは女性によるデモが各都市で行われていました。
「デモ」と書いているのは、訴えていた内容が、フェミサイド(性別を理由に女性または少女を標的とした殺人や暴力)の撲滅がメインだったから。
メキシコでのフェミニズムについては、2年前に note を書いていたので、よかったらご覧ください。

さて、ここでは、参加した様子とデモでしたことについて(事実)と、わたしの感想(主観)についてシェアをさせてください。

読むにあたってのお願い事項
・デモに参加することは、個人の意思でもあるため、ここでは参加したことについての批判やフェミニズムについての批判は受け付けません。
・そっと「こんなことがあったんだ」という目で読んでください。

  • メキシコのフェミサイドについて知りたい方はご連絡ください。調べられる範囲でわたしも調べてみます。

  • 今回は、早く共有をしたかったので、詳しく調べることはやめて、今手元にある情報や記憶を辿りながら書いていくため、本当の事実とは異なる箇所があるかもしれません。こちらもご了承ください。


何があったのかという事実の話

■3月8日前日

前日から国際女性デーを祝うSNSの投稿はたくさん見かけました。
不思議なことに、先進国と言われる国々の人の投稿は比較的ポジティブで、ラテンアメリカ諸国の方の投稿は女性の権利を訴えたり、フェミサイドについての投稿が多い印象でした。

前日からメッセージのついた飛行船がメキシコシティを飛んでおり、暴力の歴史について多くの人が声を挙げていたということがわかります。

「10 femicidios diarios」というのは「毎日10人の女性がフェミサイドの被害を受けている」ということ。

多くの友人たちも、多くの投稿をシェアしたり、意思表明をしていました。
おそらく、わたしもそのうちのひとりだったかもしれません。(大善の意思については記事の後半に記載)



■3月8日 デモ参加前
当日は、なんだかそわそわしているような雰囲気でした。Twitterをみてみると、すでに多くのトレンドになっていて、「海軍が到着した!」「広場にすでに人が押し寄せている」「イダルゴ駅でガラス板が落下して救急車が向かっている」など、そわそわするようなニュースが飛び交っていました。

行きたい気持ちも半分、怖いという気持ちも半分、行くかどうかを迷いに迷っていたら、メキシコの友人から「グループで集まりがあるから、なつみもおいで!」と。

同居人も「外国人であろうと、関係ないよ。唯一の参加できる権利を、なつみは持ってるんだから」「日本にはこんな熱気を感じられることって絶対ないでしょ。これはラテンアメリカの歴史であり、日本の国際女性デーとはまったく違う性質だから」と言われ、行くことを決意しました。

公共交通機関は必ず混んでいると思って、Beat(Uber のような配車サービスのこと)で行くことにしました。友だちのおうちまで20分、ビューンと行きましたが、やはりデモの影響で道が封鎖されていたので、途中で歩いて友だちと合流しました。

「なつみ、緑か紫色の何か持ってないの?わたしの緑のスカーフ貸すわ!」と緑のスカーフを貸してくれました。

ちなみに緑は「女性性と生殖に関する権利の要求の象徴で、安全で合法かつ自由な中絶を支持する政治的スタンス」を表明するもので、紫は「職場、制度、心理、身体、性など、女性に対するあらゆる暴力の否定」を表しています。

集合場所は Glorieta de Insurgentes という場所。
すでに多くのグループが結集して写真撮影をしたり、準備をしたりしていました。

決起集会のようなものの様子

わたしが参加したグループは合計40人くらいいたんじゃないかな。
もちろん全員知り合いじゃなく、What's Appのグループで知り合った人たちだそう。唯一の共通点は「女である」こと
わたしくらいの歳の人が多かったけど、年齢層もバラバラでした。



■3月8日 デモ参加
午後16時、一斉にグループたちが動き始めました。
わたしたちのグループは一度集まって、リーダーの女の子がグループとしてのきまりを説明し、みんなで歌を合唱してデモに合流していきました。

決まりは①何かあれば、腕に書いた緊急連絡先に連絡してもらうことグループから基本的に離れないこと警察が襲ってきても、逃げたりしないこと(暴力的なグループと間違えて捕まえれられてしまうため)。

デモの合流地点は 独立記念塔にて。
ここから、多くのデモグループが合流してくることになるのです。
合流地点から、2時間ほどかけてセントロ(ダウンタウン)の国立宮殿のあるソカロまで行進します。

何度か立ち止まったり、混雑していたため、2時間ですんなり到着はしませんでしたが、おおよそ3時間くらいかかったような印象です。

道中では、水や食べ物、紫と緑のバンダナを売っている人(男性もいた)がいたり、フェミサイドの被害者遺族も性別問わず一緒に行進したり、わたしたち外国人もたくさんいました。

仕事を途中で放棄してきていたので、元々18時くらいになったら帰ろうと思っていたので、セントロのアラメダ公園からソカロに行くまでの歩行者天国前まできて、わたしは解散しました。
その後グループはどんどん先に進んでいき、ソカロに到着したそうです。

友人にその後の様子について聞いたところ、女性だけの警察隊がやってきて、一緒に行進をしたそうです。
デモ隊の人たちも花を警察隊の女性たちにプレゼントし、とても平和で感動的だったとのこと。


わたしの主観の話

■デモに行く前
日本で叫ばれている女性の平等については、生き方や働き方にフォーカスしたもので、わたしはその環境で育ってきていました。
メキシコに移住をしてから、女性の働き方の不平等性はもちろん感じたことはありましたし、実際に会社の人(日本人)からも女の人を雇用するということについて、「面倒臭い」と言われたこともあります。

しかし、メキシコでは日本よりも女性の権利を強く求めたり、理解のある男性も多いため、「女だから」という点で不平等さは感じたことはありませんでした(性的な目で見られる、ということはありましたが)。

だから、当初わたしが描いていた「女性運動」は、こういった生き方や働き方についてのことだと解釈をしていました。

しかし、冒頭で書いた通り、メキシコでの女性運動の主旨は「まず暴力をなくすこと」でした。
デモが大きくなってきたのも2020年くらいからで、ニュースを見て、街中落書きがあったり、建造物が破壊されていたり、催涙スプレーが撒かれたり、暴力があったりと、とても攻撃的で違和感を感じていました。
女性の権利を訴えたいのはわかるけど、暴力で解決することではない、と。

こんな感情を抱いてしまうのは、わたしが「外国人」で、「いわゆる先進国出身」で、なにより「フェミサイドの被害者」ではないから。
到底理解できないこと、と「フェミニズム」を括って見ていたんだと思います。
もちろん女性の権利は尊重されるべきという考え方は持っています。

この話はメキシコ人の友だちとは共有できる話でもなく、この主旨でメキシコ人女性と会話をしたことがありませんでした。
今思えばちゃんと理解できるまで話を聞くべきであったと思います。

そんなわたしが「デモに行こう」と思ったのは、メキシコ人同居人から後押しでした。
同居人は男性であり、ストレートである。
そして「メキシコ人」であり、「フェミサイドだけでなく暴力被害にあった人を何人も知っている」というコンテクストを持っています。



■デモに行った後
ここからは、行ってからの話です。
「メキシコでのデモ」のイメージが大きく変わり、メキシコという国としても歴史的な日になったんじゃないか、と感じました。

メキシコではこのデモの数日前、サッカーの試合中にサポーターたちの殴り合いがあり、数人が病院に搬送された(死亡者もいたと記事もありましたが、実際何人がこの暴力でなくなり、怪我をしたのかはわかりません)事件がありました。
そのため「暴力はうんざりだ」「これ以上メキシコを暴力というイメージで世界に報道されたくない」という気運が高まっているような雰囲気でした。

だからこそ、今まで抱いていた暴力的なイメージから、とても平和的で対話的な形に収束したように思えました(しかし、本質の訴えていたことについての変化があったわけではありません)。
多分デモの最中も「No mas Violencia(暴力はうんざりだ)」のような言葉が叫ばれていたような。 つまり、言葉と行動のパワーと連帯を強く感じる行進だったと思っています。



「言葉」について
日本語はいわゆるスラングが少ないためうまく表現できませんが、汚い言葉が多く飛び交っていました。
もちろん、強い感情があるからこそ発せられる言葉だと思っています。
叫んだって変わらないことはわかっています。
だけど、ゼロ(叫ばないということ)よりイチ(叫ぶ)ことで、世界の誰かに響くということを強く信じられている、という雰囲気で叫ばれていました。
もはや何かを信じないといけない状態、つまり、自分たちの行為を信じないと誰が信じるんだ、ということを感じられました。



「行動」について
意思が先か、行動が先か、という議論には意味がないのはわかっています。
しかし、「参加する」「叫ぶ」「発信する」などという行動があるから、誰かにパワーを与えられるんだと思います。
すべての行動が「正しい」という言葉では片付けられません(実際にいろいろなものが破壊されたり、落書きされたりしています)。
ここでは参加者がみんなで「正しさとは」ということを意識して、行動しているようにも思えました。



「連帯」について
「Me vale la vergα」という「うちには関係ないねん」という言葉がメキシコの汚めのスラングとして存在するように、連帯を感じる場面は日常で生きていてはあまり感じることはありません。
いろいろな考えを持つ人がいるからこそコンフリクトが生まれる、ということは世界のどこでも同じ。
ただし、連帯しないと解決しない問題も山積みで、フェミサイドもその問題のひとつ。
外国人のわたしが言うのも何かと議論がありそうですが、何かを良くしようとすると、必ず反対に向かう人がいるということ。

しかし、普段足りていない「連帯」が少なくとも、この場にはあったと感じました。
同居人曰く、女性のための運動であろうとなんであろうと、一番感じて欲しかったことは「連帯」だ、とも言われたくらい。
この国に足りないのは連帯すること。少なくともデモに参加することで、自分たちが少なからず持っている強いものを感じられるはずだから行ってこい」と。

たぶん、暴力や腐敗、ここで叫ばれていたことは明日にでも変わることではありません。安心して住めるようになる場所になるわけでもありません。

先進国のエゴかもしれませんが、この「不完全」である状態が好きという、わたしみたいな人もいるはずで、たまにこのままでいて欲しいと望んでいる自分もいるんじゃないかと、第3者としての自分もいそうで怖くなります。

しかし、このままでいいはずはなく、心からメキシコで不平等なことがなくなり、安全に暮らすことができるようになって欲しいと思っています。
この感情は初めてメキシコに住み始めた頃から日に日に強くなっています(子どもが働いていることも、日常になってしまっているのも怖くて、大きな違和感だとも思います)。

仕事を中断してきていたので、18時30分頃にはわたしはデモから外れました。
その時、友だちが近くの地下鉄まで送ってくれて、最後に挨拶のハグをした時、多分今までにないくらい誰かに強くハグをしたのを覚えています。
友だちとハグしたはずなのに、デモに参加した人全員とハグをしたような気持ちで。

もし意見があれば会話したいです。認識の違いは身近な人でもあります。理解はできなくても、お互いに聞いたり、受け入れ合うことはできます。感想もOKです。


撮った写真

ここまで読んでいただきありがとうございました。 最後にiPhone で撮った写真をシェアさせてください。

デモに参加するわたし。紫のものを持っていなかったので、メンバーの1人がマスクと布をくれました。


国旗の色も、メキシコの緑・白・赤から、緑・白・紫になっている。


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