「抗体詩護符賽」夢様について
夢様の教え
ある時から私はある種の夢のことを「夢様」と呼ぶようになった。「様」と敬称で呼んでいるからと言ってそれは人格を持つ存在ではない。そもそもただの夢なので呼びかけるようなものではないが、私はいつも夢様と出会うと、つまりある種の夢を見るとそこに崇高さを感じてそれに畏敬の念を感じてしまうのでそう呼ぶことにしている。まあ日本人というものは昔から、山や川、トイレにさえ神様の存在を感じてきたのだし、私もそういう性質を受け継いでいるのかもしれない。ヤバい=神なのだ。
「夢様」は色々なことを教えてくれるが、それらを明示的に教えてくれる訳ではない。色々なことを教えてくれるといっても、それは予知夢のようなものだったり、自分の深層心理を教えてくれるといったたぐいのものではない。「夢様」はいつも、「実際に起きている唯一のこと」を教えてくれるのだ。しかし「実際に起きている唯一のこと」は言語では語り得ない。言語によって「語り得ぬもの」だけが本当の事で「語り得るもの」は全て言語が見せる夢だということが「夢様」の教えの根幹にあるものだから。でも何が「語り得ない」のかをハッキリさせるためにはどうしても言語が見せる夢の力を使う必要があるのだ。
「世界の外側」にいた夢
ある日、私は夢の中で「世界の外側」にいた。誤解を避けるために書くがその夢は起きてから「世界の外側」にいた夢になったのであって夢を見ている間はそれが全てであり、内も外もなかった。起きた後のこの世界から見て外側ということだ。目が覚める過程でその夢が「世界の外側」へと抜け出していく光景を見せられた私は、起きてからしばらく「絶対に想像することの出来ない圧倒的な別世界から帰ってきた」という驚きの感覚に陥っていた。
思い出すことが難しいのではない。逆に、思い出すことでその夢が「世界の外側」へ消されてしまうのだ。
「世界の外側にいた」という驚きとはどういった驚きなのか?それを伝えるためには、まずは私と世界の関係について整理しなければならない。
私=世界
もし「世界の外側にいた」という言葉で「世界の中に私という一人の人間がいて、その私の認識する世界には外側がある」という事を表しているのなら普通の話だ。驚きには値しない。単に「世界」という単語で二つのものを意味しているだけだ。つまり私や他人や様々な物を含む大きな世界(マクロコスモス)と、その中の自分から広がる小さな世界(ミクロコスモス)、その二つを同じ「世界」という単語で表現している。そして自分の認識が及ばないものを「世界の外側」と表現している。そして、この見方に立てば夢が「世界の外側」へ抜け出していくというのは単に「私は夢の詳細を忘れた」と言っているのと同じことになる。
しかし、本当はこのように私や他人を外側から見る視点などという超越的な視点に立つことは出来ないはずなのだ。そうした視点に立つことが出来ないのは私(ミクロコスモス)の認識には限界があり、世界(マクロコスモス、物自体)には決して到達できないからではない。そもそもそうした主張の前提になっている世界(マクロコスモス、物自体)などという超越的なものを想定することは不可能だからだ。我々の認識に限界があるのならなぜ「何を」認識出来ないのかをあらかじめ知っているのだ?という話になる。
世界(マクロコスモス)を想定することが出来ないならその中にいる私(ミクロコスモス)というのも想定出来ないことになる。ミクロコスモスとはマクロコスモスと対比される事で始めて意味を成す概念だからだ。
一切の超越的な概念を排除した後に残るのは目の前にあるすべてだけだ。それは言葉に表すことが出来ない。コップや机など個物に対しては言葉を与えることが出来るが、それらが存在している場である全体は言葉で表すことが出来ない。その場を「私=世界」と呼ぶことにする。
「すべてがその中で起きていて、それが消えたら、すべてが消えたのと同じことになる場」が私であり世界である。「私=世界」は私というものが世界にピッタリ重なるものであり、世界の中には存在しない事を意味する。つまり「世界の中の私」というアイデアを否定するものだ。私は世界の内にも外にも存在しない。世界そのものなのだ。そして世界とは定義上「すべて」という意味であり、「世界」という言葉で限界を持った何かが存在していると想定してしまったらその時点でそれは「すべて」ではなくなってしまう。全て(一つ一つの存在物)が「私=世界」の内側に存在するのであって、「私=世界」自体がどこかに存在しているわけではない。「私=世界」はただ、それら個別の対象に存在という性質を付与しているだけだ。だから「私=世界」とは「世界も私も想定する事が出来ない」ということを違う言葉で言い換えているに過ぎない。
「世界の外側」にある別世界=他者
「世界の外側にいた」という時の世界とは「私=世界」のことである。そして私は「私=世界」の外側にいた夢を見たのだった。しかし考えたらすぐわかるように「私=世界」というものに外側はない。世界とは「すべて」のことなのだから。では「世界の外側」という言葉で一体なにを指し示しているのか。「世界の外側」を想像するのは「丸い三角形」という矛盾したものを想像する時のように、一体何を想像すればいいのかわからないという意味で不可能だ。しかし「丸い三角形」のような矛盾した概念の内で一つだけ私たちが受け入れているものがある。他者という概念だ。
他者とは私ではない(他)者(私=世界)のことだから、他、つまり「世界の外側」にいる。にも関わらず「者」という言葉で、「私=世界」と同じ構造をしている事を表している。
他者と言う概念は「丸い三角形」のような単なる矛盾した概念ではない。「丸い三角形」という言葉は単に「世界の外側」に存在する(存在しない)が、他者は私と同様一つの世界なので、「世界の外側」に存在する(存在しない)とは言えない。「私=世界」が存在しないからといって「世界の外側」だと言えないのと同じ意味で、それは「世界の外側」ではなく、もう一つの世界なのだ。しかし他者は「すべてがその中で起きていて、それが消えたら、すべてが消えたのと同じことになる場」ではないので「他者=世界」とは言えない。それはやはりある意味では「世界の外側」にあるのだ。「他者=別世界」と呼ぶことにする。他者は存在しない、故に存在する。矛盾だ。
累進する「私=世界」と「他者=別世界」
これは「私=世界」を固定的な一つのまとまりだと考えているから矛盾に見えているだけで、本当は矛盾ですらないのではないか。
「私=世界」とは固定的な何かではなく、常にその外部を内に取り込む動きそのものであると捉えてみる。そして「他者=別世界」とは「私=世界」から常に抜け出していく動きそのものであると捉えてみる。そこに生まれるのは矛盾ではなく、累進構造である。
「他者=別世界」を認めると「私=世界」と「他者=別世界」の二つの世界が出来てしまう。二つあるものは、そもそも世界とは言えないので、その二つを内に含む「高次の世界」を想定しなければいけなくなる。しかしそんな超越的なものは想定できない。ゆえにその「高次の世界」は超越性を剥奪され「高次の私=世界」に変わる。その時「他者=別世界」は世界としての資格を剥奪され、「高次の私=世界」の内部にいる「他者」へと変わる。しかし同時にその「高次の私=世界」の外側に「高次の他者=別世界」というものが出現する。その「高次の私=世界」と「高次の他者=別世界」は世界としての定義を満たさないので、「より高次の世界」が想定される。しかしそれもまた超越性を剥奪され「より高次の私=世界」に変わる。そして再び「より高次の私=世界」に含まれない「より高次の他者=別世界」が出現する。といった具合に無限に世界は「私=世界」に統合され、「私=世界」に吸収されないものとして「他者=別世界」がメタレベルに出現する。他者が出現するたびに「私=世界」はその構造を維持したまま「世界の中の私」に変わる。
「私=世界」には常に「他者=別世界」が存在するということである。常にと強調しているのは階層がどれだけ上位に上がってもその都度、「私=世界」には外部が生まれるからである。
私が夢の中でいた「世界の外側」とは「丸い三角形」のような単なる無ではなくこの世界とは別の世界を体験したという意味で「他者=別世界」の体験とも言い換えられるだろう。もちろん誰か特定の誰かになっていたわけではないが。
言語について
「私=世界」には外部がない、だから他者など存在しない。「世界の外側」にいた夢など単なる与太話だ。単純にそう言い切って終わりではいけないのか?事態はそう単純ではない。「ワンネス!」一つで片付く話ではないのだ。なぜなら「ワンネス!」は言語を使ってしかそれを表現出来ないのにも関わらず、言語では絶対にそれを表現できないからだ。言語以前の世界を説明するためには既存の言語を使用するしかない。そして言語の特徴である分節化の力によって全体性を切断せざるを得ない以上、言語は伝わってしまった時点で言わんとすることから乖離せざるを得ない。
我々が言語を使うことが出来るのは累進構造の最上位が「世界」としてとどまり、その超越性を剥奪されていない間だけである。「私=世界」という言葉は他者が読めば、実際はそうではない事はすぐに分かる。なぜなら他者にとっては「本当は」その人にとっての「私」こそが世界であり、筆者はその人にとっては他者であり、「世界の外側」の一つの世界だからだ。
他者は不一致対象物のように累進構造それ自体が私とアベコベになっている。不一致対象物とは、何から何まで同じであるにも関わらず重なることの出来ない、鏡の中の世界に存在するようなものの事である。同じ形で重なり合う、二つの直角三角形のうちの一つを裏返すと、その二つの三角形はどうやっても一致することはない。他者は裏返された直角三角形のようなものである。「私=世界」という事実とその累進構造が他者においては、そのまま反転しているからである。
我々が言語を使っていられるのは「世界」が誰ともイコールで結ばれず、超越的なものとして固定されている間だけである。決して交わることのない二つの累進構造の最上位がどちらも超越的な「世界」で固定されている時(つまり最上位が存在しない時)、私と他者の累進構造は重なり、対称的になったかに見える。それが言語を使うということである。
私にとっても他者にとっても「実際に起きている唯一のこと」以外のことしか言語にすることが出来ない。言語で全体を語ろうと思っても、言語それ自体の持つ、分節する力によって違うものが伝達されてしまう。「実際に起きている唯一のこと」だけは誰も言語にして表すことが出来ないのである。
「世界の外側」にいたという驚きとは
「世界の外側にいた」という驚きとは二重の驚きである。
一つは「私=世界」だという驚きだ。今までは世界があって、その中に私がいるものだと思っていたけど「夢様」にその夢が「世界の外側」に抜け出していく光景を見せられることによって、世界とは私そのもの、だということに気がついたのだ。それは、一つの夢が私の記憶から無くなっていくということと、世界から消えていくということが全く同じ事態を表しているという事に気づいた驚きだったからだ。それまでは他者とはいつも世界の内部にいるものだと思っていた。私ではないから、理解できないのだと。しかし他者は本当は「世界の外側」にいるのだ。つまり、理解できないのではなく、それを理解するということがいかなる事態であるかを想像することが不可能な存在というのが他者なのだ。
二つ目の驚きは、「そこにいた」という事実が隠蔽されて始めて言語が可能になったことへの驚きだ。「そこにいた」という事実は、単に夢を見ていたという事実にされてしまった。その夢は思い出すことも出来ないものになってしまった。思い出す事で逆にそれは隠蔽されてしまう。それが「世界の外側」に夢が抜けていく光景という表現で意味したかったことだ。私がそこから帰ってきた、一つの世界がまるごと消えさったのだ。そして実は驚くべきことに、同じことが刹那毎に起きているのだ。
過去は他者と同じで、存在しないことが存在の根拠になっている。「現在=世界」「過去=別世界」「未来=別世界」と捉えると他者の時と同じ累進がそこに生まれている事がわかる。「世界」という超越的なものを認めることで、他者と自分という概念が意味を持つようになったように、「時間」という超越的なものを認めて始めて過去や未来が意味を持つ。その時「本当の過去」は隠蔽されて偽の「本当の過去」が記憶の中に現れる。世界の外側にいる「本当の他者」が隠蔽されて、世界の中にいる偽の「本当の他者」が他者だということにされたように。「時間」という超越的なものを想定しなければ、刹那毎に世界が消え続けているなんて事は言えないだろう。毎刹那などないし、消える世界など元々存在していないのだから。
私たちは他者がいると思うことで、本当の他者を隠蔽し、過去を思い出す事で本当の過去を隠蔽している。しかしそうした「本当のこと」は言葉では言えない。なぜなら他者という言葉で「本当の他者」を作り出し、過去という言葉で「本当の過去」を作り出しているからだ。言語の見せる夢の中には、現実に存在しないものだけが存在し、現実に存在するものは一つも存在しない。
言語は同じ一つのものを私、今、現実に分解する。世界は動的なものではなく静的なものになり、私は世界そのものではなく他者の他者としての私になる(人称)。今は世界そのものではなく、過去や未来ではない今になる(時制)。現実は世界そのものではなく、夢や幻ではではない現実になる(様相)。人称、時制、様相が生まれ全ては隠蔽される。
我々は他者がいると思ってしまうし、過去があると思ってしまう。どうしてもそう見えてしまうという生物学的な理由があるのだろう。そして言語はそうした生物学的な機能の延長なのだろう。
言語は呪術であり、世界の記述はその機能のほんの少しでしかないことを忘れてはいけない。言語は世界に変化を起こすためのものであり、説明とは一つの方法でしかない。元来、言語は挨拶をしたり、愛を伝えたり、歌を歌ったり、物語を語ったり、おもしろ話を披露するために生まれたに違いない。私たちは朝「起きる」のではなく言語の見せる夢という特殊な夢の中へ「眠りに落ちる」のだという事をいつも「夢様」は教えてくれる。そして、その夢は無数の他者によって発せられた言語によって作られているのだ。