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【紀行】松下村塾(萩市)

明治23年08月松下村塾改修の際、塾生等故旧の人々の協力により、実家杉家の私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て、神霊を鎮祭し、併せて遺墨、遺品を収めたのが始めである。

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明治40年09月15日塾生伊藤博文、野村靖の名を以て公に神社創建を出願、同年10月04日県社(旧社格)として認可を得て創建されたものである。
《 from 松陰神社御由緒(掲示板)より 》

広島県下、広島市立の小学校では昭和50年代あたりまで。修学旅行と云えば一泊二日で萩・秋芳洞(秋吉台)が定番の立寄先だった。

それこそ…何年だ、50年足らず前?ここ(一枚目の写真)で、記念写真とか撮ってるわけですよ。その頃から考えてもここだけは様変わりもせず、相変わらず松下村塾だったりします。

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御由緒の掲示板を文字起こしする段階になって初めて分かることだけど、松下村塾付帯の土蔵が松陰神社の事始めだったのは意外でした。道理で社殿の写真を撮ろうとしなかったのもうなずけるハナシ。

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こちらが野山獄から幽囚謹慎を過ごしておられた「幽囚の間」。吉田松陰の実家である杉家の一室となります。

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『三余読書 七生滅賊』木原松桂
木原松桂が書いた「三余読書」「七生滅賊」の掛け軸を、座右の銘として吉田松陰は幽囚室に掲げていました。木原松桂は40年かかって生き別れた母の墓をみつけ厚く葬ったという人物です。
《 『幽囚の間』‐木原松桂‐掛軸釈文 》

広島(東広島市高屋町)出身の医師、木原松桂。
漢詩の主旨は以下の通り。

三餘読書(さんよどくしょ)
「人生には三つの余りがあり、その余りを無駄にせず学問(読書)にはげめよ」「冬、これは一年の余り。夜、これは一日の余り。降雨は一時の余り」という。
七生滅賊(しちせいめつぞく)
「七生」は七度生まれ変わるということで「永久」を意味する。「滅賊」は尊王に背いた人間を賊といい滅するという尊王思想。

現在の社殿、昭和15年に建てられたものだそうです。それとてどうでしょう…かれこれ80年にはなるのか。うーん…明治は遠くどころか平成すらままならぬ昨今。それでも観光立寄先としては十分現役。

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まぁね…カメラ構えて参拝もせずにバシバシ写真撮って、それだけで満足というのもおかしなハナシです。参拝はしたけど、おみくじもひかずに帰ったっけな。

ともあれ。
明治以降、国の礎造りにご尽力された吉田松陰先生。お参りは致しましたので、センセイに肖って(あやかって)すこしは賢くして下さい。(祈)