recitation
小学生時分。
国語の授業では必ず「教科書を読まされる」お時間があって。
上手な人、下手なヤツ、演じてる同級生、方言イントネーションでしか本を読めない方。地方都市公立小学校アルアルの見本市。「どうやったら、そー読めるんだ。キミたち」と達観した仙人の様な目線ではもちろんなく。
ジブンもその他大勢の内の一人として、アルアルをやっておりましたな。
なかでも秀逸(というかユニーク)だったのが、担任教師が国語の授業でやらせてた「生活ノート」の朗読。教科書読むだけじゃなくて、ジブンの書いた短文日記を読ませるというのがありまして、大変印象的でした。文章・語彙力の有無が如実に顕現する短文日記。
それを立って読まされるわけです。
定番な書き出し『きょうは』。(笑)
たとえば、或る日の生活ノート。『今日は、○○クンと○○公園でザリガニ釣りをしていたら、公園の人に怒られました。』みたいなヤツなんですが。「書かされてるから、書いている感」たっぷりの事実関係の羅列。
まぁ、小学三年生ぐらいならそんなカンジで収まっちゃうんです。しかし、これを立って読むとなると俄然、羞恥心のハードルは上がります。
「もっと、ちゃんと書かなきゃいけねーんじゃねぇの?」的な。
今にして思う、あの時のセンセイのねらい。
「読む人が居なくても、声に出して読むとジブンの文章の癖がよくわかる(内容の巧拙は、さらにいわずもがな)ので。音読できる文章を書ける様にしましょう…」みたいなことだったのか、とちょっと思います。
生徒生活ノートの朗読タイムを終え、センセイは結びに「いーかぁ?新聞の社説を読めぇ」と、言われた。そしてできれば「音読してみろ」とも。
それから50年近くが経って、PCさわってたら「音読ソフト」のジャンルにふれる機会があり。何本か吟味して、インスツールしたのがこちら『テキスト音声合成ソフトウェア VOICEVOX』。
有料版だと、さらにすすんだ音読環境が整います。
これ、使用用途でいえば。
「耳の聞こえない人が相手に音声で何かを伝えようと思うとき…とか、かなり便利かもしれないなぁ」というのが最初に思い浮かんだんですけど。そういうデバイスは今、けっこうありますもんね。
で、第二に想起されたのが、そう。先述の小学生時代にあった羞恥心タイムのことでした。
声色を女の子にしたり、男声にしたり。声優風オラオラなヒトの読み上げだったり。クリック一つで自由自在。
ラジオドラマの脚本なんかだと、プロットから会話部分の書き起こしをして。実際の声で確認できるやりとりのニュアンス確認、「十分できるレベルに達してるんだなぁ…」と、驚くことしきり。
試しに、朝刊に掲載される「社説(ネットサイト掲示分)」をコピペして音読させるのに、しばらくはまっておりました。
いざ、実際に新聞の社説なんて音読することはまず、ございません。黙読して「ふーん…」とかいいながら紙面をめくるぐらいのことでしょう。いや、「見るのはネットニュースぐらいで、新聞すらしばらくさわってない」という御仁も世の中には沢山おられるでしょうな。
強制的に、興味も関心も無い分野の事柄にふれることのできる「新聞」というメディアは、色んな意味で有為なものだとおもいます。
さらに、文字で見るのと音で聞くのは、発想を転換させてくれます。「こいつの文章、1パラグラフがやたらと長いんだよな。息継ぎどこでするとか考えて書いてんのかな」と思わされる文章も、音声合成ソフトにかけてみると一目瞭然。
言ってることがわかりやすいのか、わかりにくいのかまで伝わってきます。
で、NOTEですよ。
小説家の卵さんやら、文筆家を目指す人々のオリジナル作品があふれております。それらのいくつかをソフトにコピペして音読させてみるんですわ。
これはねぇ…いいですよ。
「スキ」を戴いた方、ジブンが「スキ」を押した方々の日記でもいいんです。女性の方なら女性に発声させ、男性の方なら男声にと。なんか印象が変わること効果大。(男女、逆にしても結構面白いです)
ジブンの日記、ジブンで音読することなんてまずないんです。
それを、あえて機械が(ソフトが)やってくれることで見えてくるものも、いくつかありますけど。最も大きいのは「ヒトは読みたいようにしかヒトの文章を読んでない」という点。
音にして実際に流れてくると…「あぁ、この人、もしかしたらこーいう意味では書いてなかったんだな」とか。
日記に記すジブンの文章の巧拙なんて、考えては書かない分。音声になると余計にその人の言わんとしてることが伝わってまいります。
火野正平さんが見晴らしの良い公園の縁石に腰を下ろして「思い出の風景」について書かれた手紙を読む。(で、自転車でそこにおもむく)
それだけの番組がなぜ、あんなに長続きしてるのか…ちょっと分かった様な気のする瞬間でございました。
朗読、ってのは大事ですな。