
【道録】PRE紅葉(三原佛通寺)
佛通寺は、1397年(応永4年)小早川春平の開基、愚中周及の開山により創建された。
春平は奉行衆として京都で足利将軍家に仕えており、同僚の那珂宗泰と親しかった。春平は宗泰から、那珂氏の所領にある天寧寺にいる愚中の名声を聞き及び、彼を招いて氏寺を建立することで、南北朝時代の動乱のさなか自立性を強めた一族内の結束を図ろうとした。
佛通寺の名は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、その諡号「仏通禅師」から取られており、場所は佳き山水の地を選んで建立された。
佛通寺が創建された時代。
由緒には南北朝の沼田小早川治世とあるので、まだまだ毛利元就の権謀術数による三原攻略は、行われてなかった時代のことなんでしょうな。
花より団子ということで、訪れるみなさんの目当て。映える紅葉と、日本建築重文オンパレードの伽藍写真。

お茶席が催されると見えて、オモテかウラか存じ上げませんが。佛通寺所縁の茶道会派の方が、和服で多数お越しでした。
円安の影響もあり。海外(おとなり韓国・中国とおぼしき)から若いオネーさんたちのグループも幾らかおいでです。
残念ながら…ご覧の通り紅葉にはまだ早く。駐車場係のオッちゃんたちの話では、「いやぁぁ、まだもうチイと早かったネェ。来週ぐらいなら見ごろかもしれんケェ。来週また、来んさい」との由。
毎週毎週、寺巡りはちょっとどうかと思うぞ、オッちゃん。


入山参詣・拝観料は500円だったかしらん。
ツアーパックの中に財布は置いておき。カメラだけを手にぶらぶらと歩いてきた小生は拝観能わず。何度か訪れた経験もあり、紅葉に早いとなれば、わざわざ入るまでのこともナシと判断した、罰当たりでございます。
ボーさんごめんなさい。(合掌)


駐車場から山門手前までの小径より、正面岩に彫られた尊皇の文字。
こちら昭和14年10月10日より1ヶ月間をかけて製作されたもの。
篤信家、杉本五郎氏の遺言によるもの…と、あり。杉本氏は戦前、佛通寺篤信の軍人として名を馳せた故。
軍部の独走は尊皇の志ゆえのことから、国を愛し護るための営みを軍務・忠誠に活かすため。根源をJAPANメイドの臨済宗佛通寺に求めた…という意志の方。
思想家…ではないものの。
軍属の在り方、皇軍機縁を宗教性に求める。それをとりわけ禅宗に、というのは杉本氏のみならず、珍しいんでしょうね。佛通寺にとっては篤信家、かつ陸軍の偉人さんといったところでしょう。
世が世なら、の熱意は80年経っちゃうと。暑苦しさを通り過ぎて、「ハイハイ、そーいう有難い岩刻字ナノデスネ」という具合に、受け止め方も随分ドライなものに変わってまいります。
この辺り。戦前の偉人(軍属)は戦後、全否定…とまでは行かなくとも。かなりの確率で蔑まれたり、貶されたりしてます。著名人でいくと、井上陽水さんとか。伊丹十三さんとか、小馬鹿にした表現がお得意ですよね。
ワタクシ自身は戦後教育の落とし子にて、ナショナリストではないものの。少なくとも、ドメスティックな歴史というものに関して。あぁまでドライにこき下ろせる程、性格も荒んでおりません。
歴史的意義、という意味において国史の位置付けとは。どんなに理不尽かつ非合理であったとしても、基本、敬愛すべきものだと思うのです。小馬鹿にするのは、教授方法の未熟さとか。教えてくれた先生のモノマネあたりに留めるのがイチバンだと考えおり、ソウロウ。
で。
むしろ、隣の国からお越しになってるオネーさん方が、この尊皇岩の手前で集合写真撮ってたのが。ある意味、シュールな光景に思えたワケです。(汗)
日章旗には怒り狂う割に、意味わかって撮ってる?
旧帝国陸軍の軍神でっせ?この刻字を遺言で彫らせたのはさ。ピースでにっこり、はマズかろう。。親が泣くぞ。


ホントは鹿のみ、彫られておりました。
来週ともなると、週末土日。第一から第三まである駐車場に膨大な数の車が押し寄せ。映えようが映えまいが、お構いなしにスマホ構えて歩く人で溢れるであろう佛通寺界隈。
紅葉前の静かなひと時でございました。
