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虚子VS碧梧桐
河東碧梧桐と高浜虚子はいわずとしれた正岡子規の高弟。
師匠である正岡子規の『病床六尺』の中にもいくたびか記されることもあるお弟子さんお二人。
虚子の句風と碧梧桐の句風はまっこうから逆ベクトル。
今にして思うんだけど…これはお互いにお互いを意識するあまり、そうなるべくしてそうなったと云わざるを得まいか。
今日は頭工合やや善し。虚子と共に枕許にある画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。
余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりもむしろ花鳥を好み、複雑なる画よりもむしろ簡単なる画を好めり。今に至つてなほその傾向を変ぜず。
それ故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛の蛇矛を携へたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。
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句風…というか、後世の評価からは「高浜虚子」は正岡子規のモノした句作の正当後継者。
他方、碧梧桐は新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず、生活感情を自由に詠い込む『自由律俳句』誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にした。と、ある。
本名、河東秉五郎(へいごろう)。
1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)。新傾向の俳句を生涯の表現基調に置くものの、果たして本当に碧梧桐はごくごく普通の俳句を詠むことがあったのかなかったのか…甚だしく気になるところではある。
美女桜、ロベリヤ、松葉菊及び樺色の草花、これは先日碧梧桐の持つて来てくれた盆栽で、今は床の間の前に并べて置かれてある。
美女桜の花は濃紅、松葉菊の花は淡紅、ロベリヤは菫よりも小さな花で紫、他の一種は苧環草に似た花と葉で、花の色は凌霄花の如き樺色である。
黄百合二本、これは去年信州の木外から贈つてくれたもので、諏訪山中の産ぢやさうな。今を盛りと庭の真中に開いて居る。美人草、よろよろとして風に折れさうな花二つ三つ。銭葵一本、松の木の蔭に伸びかねて居る。
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師匠である子規の枕元に…俳句句作のモチベーションになるかとおもんばかりつつ、沢山の花を見舞い旁々持ち寄る碧梧桐。
子規は後に二人を称してこう評している。
「碧梧桐は冷やかなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐の人間を見るは猶無心の草木を見るが如く、虚子の草木を見るは猶有上の人間を見るが如し。」
高浜虚子が子規のコピー風なイメージなのに較べて、全国各地を回りつつ。風物・絶景・人の心配りの暖かさを感じつつ詠める句作の自由なことについて、思い深く感じられる句作でございます。
碧梧桐の代表句作は以下の通り。
蕎麦白き道すがらなり観音寺
赤い椿白い椿と落ちにけり
相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり
雪チラチラ岩手颪(おろし)にならで止む
ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く
曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ
前三首は、なるほど子規の弟子然たる句作。でも、後三首はその句風から進化した碧梧桐オリジナルの句風に読めてきます。
その境地に至るまでの経緯は俳句だけを眺めていてもなかなか、読み解ける気がしてきません。(高名な方のお弟子さんだから、さぞや立派な句作なのだろう…という凡庸な見方ではもちろんなく)奥の深い話なのだと思うのです。
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世代的には俳句と云えば俵万智。『サラダ記念日』が第一歌集として世に出たのが1987年。
『「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日』
これが、芭蕉・一茶以降。子規を経て昭和年代に通づる、ジブン的な俳句で自由句作の初見。その俵女史に先立つこと、80年。
碧梧桐先生が全国を巡回しつつものした句作の数々は…どのような経緯で俵万智に引き継がれたのか。季語も句作のセオリーにもとらわれず、今在るを詠む姿勢を師匠である子規はどう見ていたのか…。
きっと。優しい父親や母親の如く、暖かいまなざしで「良い良い…虚子も碧梧桐も良い。」ニコニコしながら病身の子規、2人をそう愛でていたんだと思う。
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「親は子のモノす全てを全肯定するものなのだ」と、思える様になったのはジブンが人の子の親となって始めて理解できた境地。
「間違ってても、なお間違ってない」というか「世界中の人間がオマエの敵になってもオマエを推す最後のヒトリになってやる」…そんな、親馬鹿。
親馬鹿ってのは大事でございます。(笑)