【写録】霊主体従
1975年に発刊された『リトル・トリー』はアラバマ州知事ジョージ•ウォレスのスピーチ・ライターを務めたアサ・アール・カーターの作。
舞台は世界大恐慌下の1930年代。
本作中、主人公(チェロキー・インディアンの血を引く)トリー少年は、養ってくれた祖父母を亡くし施設に引き取られるのよね。
施設ではクリスマスになると、家族や家庭に恵まれなかった孤児にも良い思い出を…とプレゼントやお菓子を配ってみたりする。
チェロキー・インディアンの風習にクリスマスなんかない。
子供ゆえ、そうした特別な日は嬉しく楽しいものであるはずなのに、トリー少年はなぜか釈然としない(手放しで喜べない)気持ちを抱く。
風の音から、森の声を聞き。日々自然と共にあるチェロキーの教えと共に。温かな祖父母に見守られつつ過ごしたあの日から見える景色からは、施設で迎えるクリスマスに違和感を感じるのよね。
水は青く澄み。山冴え渡る自然の目からは…それが何月何日であることの意味。そこに見いだせる幸せもあるが、どこか根本的な違いが両者にはある。
この時期になって、ポインセチアが花屋やスーパーの生花コーナーに列び始めると。先述『リトル・トリー』のトリー少年が抱いた違和感のことを思い出す。
もはや、セットになってる感あり。
世間の求める「良い少年」の在り方からは外れてしまうトリー少年ではありますが、著者の自伝的小説という触れ込みで発表された本作。
後に、NYタイムズに、ペン•ネーム『フォレスト•カーター』が人種隔離政策のスピーチ•ライター『アサ・アール・カーター』だったと暴かれる。ちょっと情けないおまけもあったりしました。
描かれたのは物主霊従というか。マテリアリズムに傾きつつある当時の世相を危惧してのアンチテーゼ。世相にはそう受け容れられたんですから、作品としては成立してたわけです。(『一杯のかけそば」的なね)
人種隔離政策に関わる持論…米国内におけるインディアンへの洞察的な反省とか。異論もありましょうが、後世の評価は後世のヒトにお任せして良かったのだと思います。
クリスマスで浮かれる世間。
いや、浮かれてはいても…どこか国民性とは乖離してることを知ってて浮かれるこの季節が、チェロキー・インディアンの目から見るとさ。
「あんたらも、おかしいと思ってんだろ?」と苦笑しながら言ってくれるんじゃなかろうか、と思うわけです。
結構、不自然なことだって分かっててもそうできちゃうアジアの小国民。侮蔑はせずに「あぁ、そんな楽しみ方もあるんだねぇ」と思っていただければこれ幸い。