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【紀行】Inheritance of Heart
《平清水八幡宮(山口市吉田)》
山口市吉田に鎮座の古社である。桁行6.25m、梁間5.16m、銅板葺きの三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)という形式の社殿であり、優秀な蛙股を有し、雄健にして簡素な構造であり、室町時代15世紀中期頃の建立とされる。三間社とは正面から見て柱の間(ま)が三つある社殿をいい、流造りとは後方の屋根より前方の屋根が長く流れているものをいう。
昭和20年代。
為政GHQ統治下にあった時代の経済的な困窮。戦前の民法制下に保護されていた既得権益が解体されるにつれ。因業地主が小作に理不尽な制約変更でシワを寄せるから、昭和版の逃散・逃亡が山間僻地で起こり始める。
こーいうのは、歴史の時間ではやんない。
平成年間で、大学入試(日本史の場合)でも。昭和20年以降の歴史って、出題範囲になっちゃったのかしらん。少なくとも昭和50年代や60年代じゃぁ、ウェイトは低かったと思うのです。
いや、そもそもの話。今回は歴史の話が主体というわけではないのです。(笑)
ウチの家族の話。つまり、昭和20年もそこそこの頃。母方の父(ワタクシからは祖父ですな)は、家族全員で現広島市山間部(当時はもちろん、郡村でございました)より、こちら山口市吉田に移遷をしたわけです。
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母は小学四年生だったとか。
そんな家族で移り住んだのは、現在の山口大学構内。駐車場があった場所だという話でした。両親プラス6人兄弟姉妹で生活をするわけですが。
なぜ、今の広島旧市内に移らなかったのかというと…ご存知の通り、町は壊滅的な被害を負っており。わざわざ治安の悪い旧市内に住処や仕事を求める様相にはなかったことが大きな理由。
現在の山口大学所在地(吉田キャンパス)界隈は新規移住者を受け入れるべく、市営の居住地区があてがわれ。戦後復興を担う人々への応募を募る行政施策があったがゆえの事。
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小作地にしがみ付き、現金収入のおぼつかない現行(林業と大工仕事)であれば。手に職はあるわけだから家族揃っての引っ越しも、その気になれば行うことは、できなくはない。
かくして、我が祖父母とその家族が移住を勧めてくれる親戚と共々。長年住み慣れた土地を後にして落ち着いた先に、こちらの平清水八幡宮があった。と、いうわけです。
母が子供として移り住む分、下の子の面倒を見たりもしなければならなかった事は、当時アルアルとしても。新開地移遷ゆえ、妙なしがらみもなく。クレバーな山口県民の気質を受け入れつつ。ご当地の方がそれまで住んでいた集落の暮らしとは別物。
山口、栄えてるゥ〜、な生活だったわけです。
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ただ、移動して程なくは食うや食わず。更には父(祖父)も病気ですぐにご逝去‥と、家族を塗炭の苦しみが襲うわけですが。次女であり、小学生の母親にとってみると。学ぶことが仕事であり。教育方法も集落の分校、複式学級当たり前の教授方法とは隔世の様子でもあって。。
「やればやっただけ、成績も上がるし。楽しかった…」と小生には語ってくれた事を覚えております。やがて高校を卒業した母は、公務員に採用されて。給料を家に入れる身の上になっていきます。
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友人は小学時代からの顔馴染み。そしてうら若いお姉さんともなれば、地元の氏子(平清水八幡宮)として。境内に設けられた仮設の舞台にて、ちょっとした寸劇や踊りの披露に、幼なじみたちと共に借り出されるわけで。
その準備や練習に追われたことが、とても楽しい若い日の思い出として、母の記憶に残っている、と聞かせてくれたっけな。
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晩年、認知症を患い。
母が母でなくなっていく経験を経て。
それでも母の中に在る、鮮明な記憶と。その記憶を語って聞かせてもらった、ワタシの記憶。
そんな私もまた、いずれかの時を経れば、この世のものでなくなる時は参ります。そして誰かに語ることもなければ、戦後生き生きとこの境内で歌ったり、踊ったりした人々が居たことも、ある意味この世から消えてゆく。
場の記憶。
数多の人々が詣でた、場所としての意味と意義。
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おどろおどろしい昔話や、故事来歴ででっち上げられたパワースポットよりも。なんの変哲もない、懐かしい肉親の記憶に残る、この場所こそは。今の私にとって、母と繋がれる。かけがえの無い、パワースポットなのです。
こういうのも、アカシック・レコードとやらには記録されてんのかね。多重多元の錯綜するパラレル・ワールドがあったとしても。
なんつーか、今の自分、今の場所、今の冴えないけど素晴らしい隣人たちが居る。ジブンの居場所をメイメイで、もっと意義ある場所にできれば。そらもう、誰もが大概のことは許せるんじゃないかしらん…。(笑)
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昭和33年。
拝殿の改修工事に寄進をした人々の銘板に、近年亡くなった伯父の名を見つけ。境内のベンチに腰掛け、ぼんやりとそんな甘っちょろいことを、もの思う。秋の日でございました。(合掌)
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