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陰翳礼讃
家が建つ前から、ウチの床の間には「垂撥(すいはつ)」を掛けることにきめておりました。
一つには四国大洲市にある『臥龍山荘』の肱川に張り出した「不老庵」を赴いたとき。床の間の壁に刻まれた掛軸の風に揺れてついたと思われる傷。
「そこに風靡を見いだす」というお話しを、山荘管理に携わっておられる職員の方から教えていただいたわけです。
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掛軸なくても楽しめる床の間の方法について、しばし尋ねたところ…。
「時々の花を掛花瓶で活けたり、花が無ければ花を描いた扇を飾ったり、短冊を掛けておくこともできる『垂撥』が一番でしょうね」とのお言葉。
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骨董趣味はまったくないので「そいつで行こう」と、その時に思ったのがきっかけらしいきっかけでした。
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東京に赴いて受けた研修で、お世話になった大学の名誉教授が仰っておられた事の中に。「もう、今ではあんまりそういうハナシを真に受ける人も少ないのでしょうけれど」とことわってから。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』について、触れておられました。
まだ電灯がなかった時代の今日と違った日本の美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風雅の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたもの。谷崎の代表的評論作品で、関西に移住した谷崎が日本の古典回帰に目覚めた時期の随筆である。
床の間に飾られた掛軸・生け花の意匠に向けて、バシバシフラッシュを焚いて撮られた写真には表現できないモノがある。
自然に夜明け・夕暮れ・日が陰るところでできる陰翳こそが、床の間のある家の主人が見て欲しいと思う「光景」なのだ…というお話しでした。
「ニンゲンにも陰翳は必要です」と、先生のお話は続きました。
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「楽しさ、明るさだけが求められる世相にあって。本来その人の持つ陰翳をどうかすると明るく見える部分だけクローズアップするのは、傍で受け止める印象として不自然ですし。なにより下品に感じます。
その人そのものが自分の角度からどう見えるか、そしてどう感じるか。
本人は意図していても意図していなくても、そう見える。そう見られるところから自然に印象とか感想とかが形成されるものだと私は思います」というオハナシ。
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上から目線とか、下から目線とか…上だったり下だったりするその角度こそは自分自身の置かれている立場というもので思えば。
「あぁ、なんと下品な人だなぁ」とか「こういう言い方しかできないのかね」とか。感じる側が受け取る相手の陰翳なんでしょうな。
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「世相や時代、相手や仲間から受け取る陰翳を愛でることができなければいけないよ」ということを先生は言いたかったのかねぇ…と思います。
印象に留めておくことがどうやらキモの様です。
まちがっても、ランチで同僚と「アレはねぇよなぁ…どー思う?ドヤ顔で言われても困るっちゅーの」とか。語ってはならないんですな。
相手の下品は愛でましょう。(笑)
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「玄関先に飾るのはちょっと憚られるよなぁ、この正月飾り」などと呟きながら、垂撥に正月飾りを試し掛けしつつ…。
もの思う年の瀬でございます。