4月拝観法話『幸福の条件は捨てること』


春風の候、本日は泰勝寺へお参り下さり有難うございます。
綺麗に咲いていた桜も散り少し寂しい気持ちもします。
一方で桜は限られた時間に咲くゆえに美しく、私たちの心になにか訴えるものがあると思います。
私たちの命もまた限られた命です。
桜が限られた時間を精一杯に咲くように、私達もまた限られた命を精一杯に生きていきたいものです。

泰勝寺の先代の住職、成仙和尚は目の前のことに精一杯に取り組む後ろ姿で語る僧侶でした。
泰勝寺の住職として、中学校の教師として、また廃寺であった単伝寺(らくがき寺)を復興させました。
成仙和尚は、幸福の条件は「捨てる」ことと述べています。
今回は『禅に生きる三十人』(平成六年・タナベ経営出版)に載っている成仙和尚の文章をご紹介させていただきます。


【幸福の条件は『捨てる』こと】

現代人は重大な忘れ物をしています。
科学の発達により、地球の外まで飛び出せたり、家庭生活も何の苦労もなく 便利に日々が送れるようになっています。
こうした面から見ると、科学がもたらした幸せが至るところに輝いているようです。
しかし、一方また目を転じると、毎日の犯罪、汚職、贈賄、青少年の非行、交通事故と、目を覆うような地獄絵図が、繰り広げられているのも事実です。
一体どうして、こんなちぐはぐな文化国家ができるのか。
結局、物質文化の勢いに流され、心の発達を忘れてしまったからに外ありません。
物質第一の文化は当然ものを集めることに終始します。
ところが、我々の幸福の条件は、捨てるということなのです。
捨てるとは、自己中心の欲を、つまり、わがままを無くすということです。
そこに、自他の本当の幸せがあるのですが、そのことを忘れて、目先の我欲を満たすために、きゅうきゅうとして、一方的にものを集める努力のみをしてきたために今日の不幸を招いているのであります。
我欲を捨てられないために、いろいろ支障を来たしている事実は、家庭のなかにも見られます。
たとえば、親と子の間にしても、親のできなかったことを子供にさせようとする。
親の一方的な利害だけで子供を叱りつける。
親も後始末がよくないのに、子供の後始末が悪いので叱る。
また、親は税金をごまかしながら、子供のごまかしにはひどく腹を立てる。
数えるとキリがないのですが、結局、親子間のゴタゴタは、子供のほうよりも親の我欲中心の育て方に問題があることが多いようです。
親のわがままと、子のわがままが増大してくると親子間の悲劇的な争いが生じます。
夫婦の間も同じことで、夫は妻にサービス精神を要求し、妻は夫に家庭への関心を要求するといった具合に、相手から何かを取ろう、奪おうとする心が、夫婦間のトラブルを醸し出すのではないでしょうか。
どうしたら相手に喜ばれるかということを心がけている間は、トラブルもなく、かえって幸せなのではないでしょうか。
自分の一切を捨てて人につくす奉仕の生活というようなことは、一見まことに損な行いのように見え、そんなことでは到底生活がなりたたないように考えられますが、しかし誠心をもって人に尽くせば、すでにそのことの中に喜びがあり、かつまた、思いがけぬ時に思いがけぬところから、自分や自分の家庭あるいは子孫へ、幸せの贈り物があります。
いざという時、観念してアッサリ生命を投げ出すと、かえって奇跡的に助かる場合がよくあります。
これは、生命だけでなく、事業の上でも、学問の上でも、政治社会の上でも言えることです。
自分の欲を捨て、相手のために真心を尽くすことが、本当の生きがいを生み、また見せ掛けの得でなく、本当の幸せをもたらす唯一の道であることを、現代人はハッキリと自覚すべきであります。

意識的に立ち止まり、我欲を捨てていく中で大切なことが見えてくるのではないでしょうか。
泰勝寺へお参りすることで、自分自身を見つめる時間にし、生きる活力や心を調える時間にしていただければ幸いです。 合掌

   令和五年卯月九日


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