禅兄として生きる ~Live with Zero~
再び0から自分の軸を模索した一年
今から約一年前の2023年2月にカナダから帰国後、湘南に移住しこれまでの人生を見つめながらも、失った過去の栄光の大きさから、なかなか自分の人生軸を定められずにいた。
親や親戚、友人、知人の会社など自分以外の誰かの為に働き役立つことで、
自分が本当に何をしたいのか?
自分は何が得意なのか?
自分が何を求められているのか?
それでいて自分がどう稼いで生きていくか?
ハーブ、観葉植物、ノンアルビール、香水、BtoB事業のDXコンサル、M&A、占い、女性用バイアグラなど、様々な人と関わり、色んな領域で事業立ち上げの挑戦をし、再び自分が生きる目標と軸探しをした。
人生は仕事だけでなく趣味も重要だと思い、釣りやサーフィン、登山やキャンプなどのアウトドアや、ヨガや筋トレ、ランニング、 家では読書やトラックメイキングなど、とにかくやってみたい事を色々突き詰めた。
また東京を離れたことで、どんな人が自分の人生を豊かにしてくれるか、逆にどういう人間と関わるべきではないかの人間関係も整理でき、1年前は0人だったインスタのアカウントも、今では1000人を超えるまで再構築することが出来た。
そして平成6年2月28生まれの自分が生まれてちょうど30年と1日後の、令和6年2月29日と言う4年に一度の奇跡的な日に「株式会社禅」の登記が完了し、ようやくチル兄としての過去と完全に決別し、自分の次の人生のテーマが決まった。
それこそがまさにこの記事のタイトルである、「禅兄」として生きる〜Live with Zero〜である。
振り返ればメルカリを辞めて、Chill&Heavenを創業した2019年から5年の時が経った。当時は25歳、世の中の事を何も知らず根拠のない自信と溢れ出る情熱のままに奔走していた。この5年で起きたジェットコースターのような人生の旅を経て、ようやくまたこうして新鮮な気持ちでスタートラインに立てる喜びを実感すると共に、これから人生で4社目の起業をする上で、同じ失敗を繰り返さず、本当の意味で成功するには何が必要かこの一年考え続けた。
これまで心配と迷惑をかけてきた周囲の大切な人へ、またこの約一年間で関わったすべての人への感謝を込めて、失敗だらけの僕の人生を包み隠さず赤裸々に書いたので、どうかお時間の許す方は最後まで読んでみてください。
「成功 ≠ 幸せ」を知らずに、快楽に溺れた20代
そもそも幸せを作る三大ホルモンは以下のようにピラミッド上に分類され、下からセロトニン的幸福、オキシトシン的幸福、ドーパミン的幸福に分類される。「いい家に住みたい」とか「ブランド物が欲しい」、「もっと派手に遊びたい」、「海外旅行にもっと行きたい」など物質的だったり、社会の相対比較によって成り立つ「地位や名声」などの結果に向いている場合、基本的にそれは達成によって生まれるドーパミン的幸福に分類される。
今の資本主義はお金さえあれば、そういった物質や結果はいくらでも手に入るので、一般的な世の中のマーケティング洗脳されると、一見お金が沢山あればある程幸せになれるいう固定観念が生まれるのは仕方がない。現に自分も2期目で営業利益が2億近くになり、何もしなかったら税金で40%持っていかれるのはアホらしいので、個人的な物欲はなかった代わりに経験としての旅行や、接待費として人に使ったり、江ノ島の海の見える店舗や福岡でサウナ付きのタワマンを借りたりと、どんどん自分が幸せになれる未来に消費・投資していたつもりでいた。
しかしそれらは振り返ると、未来に向けた投資としての消費を超えた、浪費でしかなかった為、一見みんなが憧れる生活をしていたかもしれないが実際は心の底から幸せを感じられていなかった。ドーパミン的幸福は満たされれば刹那的快楽を得られるが、飽きたり枯渇するとまたその埋め合わせの為にもっと欲しくなる、例えるなら仕事が趣味だと言い張り、稼いだお金で西麻布で毎日のようにラウンジやキャバクラに通ったりしている「イケてる」経営者の行動心理と同じで、成功というドラッグで脳が麻痺してしまい、心のと体が健康である上で小さな幸せを感じられるセロトニン的幸福が欠落し、その埋め合わせする為に女の子たちと過ごしてオキシトシン的幸福を満たし、お酒の陶酔効果によって更にドーパミン的快楽で孤独さを紛らわせている状態だったんだなと。結果依存症者として精神病院にぶち込まれるまで、個人のメンタルヘルスだけでなく、人間関係も完全に悪循環のサイクルに陥っていたので、今ではこの黒歴史も長い人生で見れば意味のあったライフイベントの一つだと捉えている。
気付かない内に「ドーパミン中毒」になっている現代人
たまたま2人の友人からこの動画を勧められた時に完全に自分だと思った動画があるので、紹介したい。前編と後半があるが気になった人は是非両方ともじっくり観て欲しい。
自分の言葉で簡単に要約すると、快楽と苦痛は常にシーソーのような等価交換の関係にあり、本来は苦痛が先に伴い、その報酬として快楽が発生するよう脳はプログラミングされているはずが、現代はスマホのスワイプとクリックだけで全ての情報とサービスにアクセス出来るので、本来得るはずの苦痛を伴わないで快楽が得られる便利過ぎる社会になっている。例えばUberEatsで食べたい物を頼めば30分後には家に届くし、会いたい人に会わなくても、SNSを通じてリアルタイムで近況を把握したり、LINEでビデオ通話をすれば人恋しさを満たせられる。
結果その快楽の代償として、人間のホメオタシス(恒常性機能)が働き、「心」でその苦痛を支払い、現代人がメンタルを病みやすくなってしまっている原因になっている。自分に照らし合わせても、苦痛を伴う努力によって少しずつ広げていた器に、予想よりも短期間かつ急激に「成功」したことで、その器を超える報酬としての快楽に慢心し、溺れてしまい、その代償を支払う為に「失敗」が必要だっただけなんだなと。あの時自分の器とその成功を自分の力ではなく周囲のお陰であると心の底から理解していれば、傲慢にならず同じ結果にはなっていなかったと思うので、自分の未熟さと迷惑を掛けた反省はこの先も絶対に忘れないようにしたい。
真の成功と幸せは何か?
では幸せになる為の「成功」とは一体何なんだろう。この定義は恐らく一生哲学していくものなので、まだまだ未熟な自分が語るには経験が浅過ぎるかもしれないが、辿り着いた現時点での結論が、「社会的成功を望まず、正行し続けることによる副産物」である。
先程話したような物質的や相対的な豊かさとしての「社会的成功」は、それを手にした瞬間に満たされ、飽きるかもっと欲しくなってとっとこ走り続けるハムスターと同じである。結果としての成功を追うのではなく、「正行 = 自分の欲求(エゴ)と向き合い、そのエゴを満たす為に行動し続ける」と自分の決めた目標に向けて自分を律しているプロセス自体を成功と定義すれば、その自分の約束を守れないことのみが失敗であると捉えることができる。
そして正行の積み重ねが功を成し、副産物としての成功も結果的に得ている状態になるので、その過程でも幸せを見出しながら、それに伴う結果にも喜びを見出せる。テストで100点を取ることは学生時代の成功だったかもしれないが、大人になるとそんな各種目のテストの点数が高いことよりも、真面目に歯を食いしばって努力した自分自身の成長や、そこで出会った仲間と思い出こそが振り返った時に最も重要だったと気付くのと一緒である。
そして今の自分の理想の正行とは「自分が健康で充実した日々の中で幸せを感じ、1人でも多くの人にその幸せをお裾分けすること」だということがこの一年を通して見えてきた。
1週間のサバイバル生活で見えた幸せの本質
訳あって30歳になった誕生日の次の日から1週間連続でキャンプ生活をしていた。何もない原っぱに放り出されると睡眠欲を満たすためにテントを貼り、暖を取るために焚き火を点け、次は腹を満たす為にその焚き火で調理を始め、食欲を満たす。普段の生活では当たり前のようにベッドで寝て、お金を払えば美味しいご飯が食べられる中で、これだけの苦労を経て食べるキャンプ飯は格別に美味いし、普段寝付きが悪い自分が自然の静寂の中でスッと寝られる喜びを感じることが出来た。
朝に飲むコーヒーもインスタントではなく、誕生日にもらったプレゼントのコーヒーミルで豆から挽いて豆の香りを嗅ぎながら、ガスバーナーで温めたお湯で淹れるコーヒーと、焚き火の上でホットサンドメーカー(これもプレゼントしてくれた物)で作るあんバターサンドは格別である。
そして自分の生活が満たされてくると、今度は友達を呼んで一緒にご飯を食べたり、シーシャを吸いながら語ったりしているだけで、気付けば充実した一日が過ぎ、また次の日に飲むコーヒーとあんバターサンドで至福の朝がスタートする、そんな何もない日々がとても有意義であっという間に過ぎた。
寒くても雨が降っていても、全て自分で行わないといけない自然の厳しさと不便さで普通だったら苦痛で避けたいキャンプ生活を通して、逆に苦痛を伴うからこそ些細なことでも有り難さを感じられる幸せと同時に、いかに現代が便利で苦痛のない生活を、過去の先人達が2000年以上掛けて築いてきた文明の恩恵を享受しながら、当たり前に生きられている幸せを忘れているのかということを痛感した。
ドーパミン的幸福としての成功の中を追い求めて、幸せを外に求めていたけど、大切なのは既にある目の前の幸せに気付けるか、自分自身のマインドセット次第なんだと気付かされたサバイバル生活だった。
そしてサバイバル生活の後この山納銀之輔さんのYoutubeを教えてもらい、考えていたことが全て言語化されていて、とても共感出来たので紹介したい。(時間ない人は20:05あたり〜だけでも観て欲しい)
この方の話によると、人々の幸せの99%は三大欲求(よく寝て、美味しいものを食べて、好きな人と一緒にいること)によって満たされるのに、現代人は残りの1%の幸福を満たす為にその99%の幸せを犠牲にしている(寝る暇も惜しんで、食事もコンビニで済ませ、会いたい人に会うのも我慢して仕事漬けの毎日)。そしてその幸せを犠牲にしながら頑張っているので、ストレスが生まれ、稼いだお金でそのストレスを解消するという悪循環のサイクルに入っているのだと。まさに成功の意味を履き違えて、幸せとは真逆の方向に向かっていた頃の自分だった。
だからこそ成功という刹那的な快楽のドーパミン的幸福に人生の意味を見出すのではなく、「自分が健康で充実した日々の中で幸せを感じ、1人でも多くの人にその幸せをお裾分けすること」という先程話した正行こそが、キャンプ生活で得た気付きのように、質の良い食事と睡眠などから得られる自身の心と体の健康を満たすセロトニン的幸福と、家族やパートナー、友人など大切な人との繋がりの中で感じるオキシトシン的幸福を満たし続けられて、真の持続的な幸福を感じられる方法なのではないかという結論に至った。
現代人が真の幸せに気付けない理由
過去の自分も含めてなぜ現代において幸せを見出せないのか?ここからはそんな成功という刹那的快楽(ドーパミン的幸福)を目的とした人生から、正行という持続的幸福(セロトニン的幸福やオキシトシン的幸福)を見出す為の人生を歩む方法について、現時点での僕の考えを書いていきたいと思う。
結論としては正行(= 自分のエゴと向き合い、そのエゴを満たす為に行動し続ける)の為には、「幸せを作ろうと足し算をするのではなく、幸せに気付けなくなる要因を引き算すること」が必要なんだと思う。
「お金」というドラッグに中毒なのを気付かない、煩悩だらけの現代人
現代は文明があまりにも発達し、物質と情報に溢れ過ぎて、SNSでは比較し、社会では体裁を気にしながら生きる必要があるので、なかなか自分の心の声、真のエゴを聞けなくなっている。そして幸せが何か分からなくなり、不安や孤独感を満たすために、過去の自分と同じようにもっともっととドーパミン的幸福に支配された、煩悩だらけの状態になっている。結果肥大化するエゴを満たすお金がないからと、自分と目の前の幸せを犠牲にしながら更に忙しくして自分との対話の時間がなくなり、お金が増えれば増える程余計に不幸せになると言う過去の自分と同じ負のスパイラルに陥ってしまう。
当然資本主義という構造の元に生きる現代人において、自分のエゴを満たす為には「お金」が必要な事実は変わらない。
ただお金は選択肢を増やしてくれるようで、自分の器を超えるお金はその選択肢の多さがそのまま煩悩の数となり、逆に悩みの種になってしまう。
しかも人間は一定数のお金や地位を獲得すると、その得た獲物を手放したくないと言う恐怖心が防衛本能として芽生え、それを失わない為の安心感が欲しくて、更にもっと欲しくなったり、今持っている物を必死に守ろうとするコンフォートゾーンに保とうとする習性を持つ為、リスクを取って挑戦しようとする能動的な行動から、リスクを回避する受動的な行動が増える。
結果、ちゃんとした軸がないとリスクを鑑みながら選択肢を自ら選ぶのではなく、自分以外の他者のエゴを自分のエゴかのように錯覚を覚え、偽のエゴに惑わされ、簡単に自分の意思を見失い他者に流される人生に傾きがちになってしまうのである。
現代はお金という最強のドラッグによって、苦痛抜きで全ての欲を満たせてしまうが故に、今目の前の幸せを蔑ろにして自分を犠牲にしていることに気付かず、より苦痛なく簡単に幸せになろうとする煩悩に溢れ、一生不平・不満を垂らしながら満たされない現状に病んでしまっている「お金依存症患者」のようになってしまっている。結果現世を生きるのが苦しくなってしまい、あの世で幸せを模索する「自殺者」が年々増えるというとても悲しい世の中なのが現実だ。
ではこの物質的に豊かであるが故に、煩悩だらけになって心が貧しい現代において、どう幸せに生き残るべきか?その答えこそがまさに今回のタイトル通り、「禅な生き方 ~Live with Zero~」 という結論に結びついていく。
現代で持続的な幸福を感じる生き方 = 「NEO禅」
煩悩と向き合い、真のエゴと偽りのエゴを見極める「智慧」
先程から煩悩とか禅という宗教っぽい言葉を使い始めているので、こいつスピってね、胡散臭い宗教団体でも始めたんじゃねって先入観が出てきている人もいるかもしれないが、あくまで自分は精神世界を左脳で理解したいだけで、今でもみんなと同じゴリゴリのビジネスマンだし、遊びも大好きだし、丸坊主にして出家しましょうなんて事を言うつもりはないので安心してください。笑
まず煩悩という言葉は知っているようで、自分も含め深く理解していなかったので改めてWikipediaで意味を調べてみた。
智慧は「ちえ」と読むので一見「知恵」と同じような意味として捉えていたが、知恵は「物事について考えたり、判断したりする頭の働き」に対して、智慧は「真実はどうなのかを考える頭の働き」であり、同じ思考する行為であってその目的が違う。つまり煩悩とは平たく言うと「自分の本当の心の声 (真のエゴ)を聞く上でのノイズ」であると言える。
エゴと聞くとエゴイストとか自己中心的とかネガティブなイメージを持つ人もいるかもしれないが、 実はそのエゴこそが自分の本当の欲求であり、煩悩というノイズによってそのエゴが見えなくなってしまっている。
例えば「いい家に住みたい」というエゴがある時に、それをなぜ望む理由が「周りよりもいい生活をしているという優越感」なのであれば、それは本当の自分の心の声ではなく、他者と比較した上での社会的評価を得たい、もっと深くにあるのは自分に自信がないから、「いい家に住んでいる」というステータスによって自信をつけたいという煩悩なので、仮に世間一般的な「いい家」に住んで、人をたくさん呼んで承認されることで多少自信は付くかもしれないが、結局その心の空虚感を満たすことは出来ない「偽りのエゴ」だったことに気付く。
逆に「自分は料理が好きで、毎日美味しい手料理を作る為に、広いキッチンのあるいい家に住みたい」というのが理由だった場合、それは他者を介さず自分の幸せの為に必要な物を理解しているので「真のエゴ」であると言える。
こうやって一つずつ自分のエゴを内省し、そのエゴが本物か偽物かを吟味する智慧こそが現代人に足りていない能力なのではないかと感じている。AIの更なる発展によって、人はAIに知識と知恵を代替していくことになるので、人間が人間として価値を見出しAIや機械に代替されない為にも、更にこの智慧の重要性が高まっていくと思う。
昔の人は今ほど物質も豊かではなかったので、知恵を使い生み出しては智慧で更に改善していったり、また情報も少ないので人と比較する機会も少なく、苦痛を伴った不便さの中で目の前の小さな幸せに気付くことが出来たのかもしれない。だからといって現代人が時代に逆行して、不便な生活をしていれば幸せなのかと言うと、それはこれまで先人たちが創り上げた文明の恩恵を蔑ろにすることになるし、現代の技術や物質を使わないことはむしろ非効率的で、合理的であるとは言えない。
重要なのは知識と知恵だけで簡単に幸せになろうと外に答えを求めるのではなく、智慧も使いながら自分の内側に目を向け、心の声に従って一つずつ自分のエゴを満たしながら、煩悩に気付きそれを手放す為の努力を惜しまないことなんだと思う。そうやって一つずつ煩悩を手放していった先に「無」の境地があり、その状態こそが「禅」なのかなというのが現時点の僕の考えである。
そして「NEO禅」とは、物質的に貧しかった時代で、ご飯1杯すらもままならないひもじい食事の中にも幸せを見出して「(足りていなくても)足るを知る」禅の考えに対して、逆にご飯がおかわりし放題の物質的に豊かな現代においては自分の適度を知り、規律の中で幸せを見出す「(自分にとっての)足るを知る」という、時代の前提条件が違う中でも、2000年以上人類が模索してきた悟りの境地に辿り着くための、温故知新で現代に合った形で「禅」の精神を伝えていきたいという思いを込めている。
Live with ZERO=煩悩をなくし真のエゴに気付く
ノイズを引き算して、セロトニン・オキシトシン的幸福を満たす
資本主義の中で生きる私たちは完全にお金を手放すことも、物質や情報を完全に遮断することもできないので、出家をしないと悟りが出来ないという固定観念ではなく、日々人と触れ合いながら、仕事も趣味も充実させつつ、自己を内省し、煩悩の奥にある本当のエゴを見つめていかなければならない。
そんな煩悩まみれの現代で悟りを開く「NEO ZEN」な生き方が、4月から鎌倉に引っ越してようやく実践できるようになってきた。(みんなに禅ハウスって呼ばれてます…笑)
その中で感じるのは無駄な欲(煩悩)があるから、その欲を満たす為に必要以上に働いてストレスが発生し、その給料でストレスを解消する為に消費するというサイクルから、心の声を聞いて自分の今の状況と真の欲(真のエゴ)を知り、まず今満たされていることを感じ、それ以上幸せになる為に付け足すのではなく、逆に今自分が不幸せになる要因を少しずつ引き算して、常に自分の心に余白を持たせていく。これがLive with Zeroという幸せに気付く為の心が「無」の状態になることである。
そしてその心が健康なZERO状態に保てていれば、幸せなことが起きたら幸せであると感謝でき、逆に不幸せな事が起きた場合は、他責にする前に自分が持つエゴの鏡によって起こった学びのチャンスをくれたと、ポジティブに自責に置き換え解釈する。その気付きが内部要因で解決するものであれば自己努力で改善し、外部要因であればそれを手放したり、環境を変えるなどの改革をする。そうやってマイナスを削ぎ落として、小さな幸せに気付くことができることが持続的に幸せな状態を続ける方法なんじゃないかなと。
コロナで規制や禁止ばかりで抑圧されていた社会の中で逃避行動としての「チル」が生きる術だったが、アフターコロナで閉塞的な社会と世界的な物価高に円安が拍車を掛け不況のどん底にある今、チルだけでなく、むしろ心がずっとZEROな状態を保てる「NEO禅」な生き方こそが現代における幸せを見出す為の術だと思っている。
まずは自分自身が売上を上げようとか会社を大きくしようという煩悩を捨て、この混沌とした現代を悩みながら必死に生きる人々に、禅ハーブを通して深い深呼吸を行ってもらい、一日の中でスマホやたばこなどのドーパミン中毒になっている状態から解放された「無」の時間を作ることで、煩悩を取り除き、真のエゴを内省していく心のストレッチのサポートをしながら、一人でも多くの人が心に余裕を持って真の幸せを見出せる「NEO禅」という思想や生き方を広げていくのが自分の使命だと本気で信じて頑張ろうと思います!
今後日本語と英語の両方でまたYoutubeで発信していこうと思ってるので、是非このNoteに共感してもらえて、これからの発信も観ていただける方はチャンネル登録の方お願いします!
ちょうど新作の「吸うビール」ブレンドを出して1本目のYoutubeがアップされたので、気になる方は是非ご覧ください。
気付いたら思い込めすぎて1万文字超えてしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
POP UPや卸など一緒に禅ハーブを広めてくれるパートナーも募集していますので、ご興味ある方はDMいただくかこちらまでご連絡お待ちしております。
問い合わせ先 : pr@zenherb.life
最後に
自分がロールモデルとするスティーブ・ジョブスの死に際の遺言を紹介したいと思う。Appleのような世界を変えるプロダクトを作ることは出来ないかもしれないが、この悟りを彼の学んでいた「禅」の本場である日本に生まれた1人の日本人として、世界に広めていきたい。