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人は嫌うもの 悲しみの涙が天命になる

食堂をやっていると、せつない気持ちになることがあります。
お客さんがおかずやご飯を残していたり、SNSでネガティブな評価が投稿されたり。

私は、人からの評価にかなり一喜一憂します。若い頃は、評価されるために頑張っていました。そして疲れて、心を病みました。

評価を得たその一瞬は気持ちがいいです。しかし、今度は評価を得ないと不安になるのです。評価は麻薬のようなものといえます。

今は、無理に評価を得ようとはしなくはなりました。コーチとして経験を重ねる中で、評価への過敏さは克服できたと思っていました。食堂をはじめるまでは・・・

しかし、食堂という、多くの人と出会う仕事をはじめたことで、あらためて評価に過敏に反応する自分に直面することになりました。

いい評価を得ようとは思いませんが、悪い評価には耐えられない自分がいたのです。



また、「嫌われたくない」の裏返しとして、「好かれたい」という気持ちが強くなるときがあります。会う人にすべてに好かれたい・・・もちろん、こんな考えは現実的ではなく、頭では無理なことは分かっています。

好かれたい。嫌われたくない。
今でも、この狭間にはまってしまうことがあります。

人は、鈍感なときと、過敏になるときがあると思います。あなたは、どんなとき過敏に反応するでしょうか。

悪い評価に過敏になる自分と、どう付き合っていけばよいのでしょうか。

ある飲食店の経営者は、「SNSは大事な発信源ですが、実はSNSに書き込むお客さんはなかなか常連さんにはなりません。もちろん多くの人に来店いただく戦略も大事です。一方で10人のお客さんのうち1人が常連さんになってくれれば十分経営していけます。どうすればコアなファンになってもらえるかを考えていけばいいですよ」と話されていました。

確かにその通りですよね。さまざまな荒波を乗り越えてきた飲食のプロ経営者の言葉には、説得力があります。

10人のうち何人かは二度と行かないと思い、何人かはどうでもよかった体験として忘れていくのでしょう。



とは言っても、嫌われるのは、なかなかの苦しみを伴います。

嫌われてはダメだ。
嫌われるのが怖い。
嫌われて傷つくのが嫌だ。
嫌われて孤独になりたくない。

このように思うのも当然ですが…


人は嫌うもの。


これが世の中の真理です。嫌われたくないというのは、この流れに抗うことです。

でも、だからといって、「嫌われていいんだ。どうせ人なんか信用できない。好きな人とだけ付き合えばいい。我が道をいくのだ」というのも、少し偏っているように思います。

嫌われても苦しいし、嫌われていいんだと完全に開き直るのも、結構苦しいもの。

それを超えていくあり方が、「人は嫌うもの」という真理の流れではないでしょうか。ただ人は嫌うということを受け入れるのです。

誰かに好きになってもらう努力は素晴らしいと思います。好きになってもらえるように努力する一方で、心のどこかで「嫌いになるのは仕方がない」と諦めておくと、好かれるかどうかに過敏に反応しなくなります。

好かれるかどうかに執着しないと、たとえ嫌われたとしても、言うべきことは言えるかもしれません。嫌いになる人を恨まなくてよくなるかもしれません。

最近、「人は嫌うもの」という真理に抗わないあり方が少しずつ体験できているように思います。



苦手なひとに苦手と思われるありかたで生きるのです。

苦手だなあと思う相手は必ずいます。それなのに、もしあなたが自分を偽って合わせようとすると、相手に誤解を与えてしまいます。あなたが嫌われまいと無理をした結果、ひょっとしたら好かれてしまうかもしれません。これは悲劇でしょう。

嫌われないために無理をした行動は、人間関係を複雑にしてしまうことがよくあるのです。

いかに早めに嫌われるか。深い傷を負う前に、早めにお別れできるかも大切ではないでしょうか。

ただ、仕事上の付き合いや知り合いとの人間関係では、上手くやっていきたい相手はいます。苦手でもなんとか付き合っていくのが必要な状況もあるでしょう。



人間社会は結構、難しいですよね。

私も、苦手だけど気を遣いながらお付き合いしている人もいます。

ただ、苦手な気持ちに嘘はつかないことにしています。適度な距離は保っておいて、無理に好かれようとはしないのです。

人は嫌うもの。
私も苦手でいい。

そして、嫌い、苦手という気持ちも、常に同じではありません。いろいろな状況によって、変化していきます。

今日好きでも、明日は苦手かもしれません。
今日苦手でも、明日は何か温かい光が差し込むかもしれません。



ちなみに、最近10年ぶりくらいに、やり取りを再開した人がいます。

ずっと苦手意識を持っていたのですが、10年ぶりにお会いすると、なぜかその気持ちは消えていました。

私も変化したのでしょう。
相手も変化したのかもしれません。

とても楽しい時間を過ごせました。
本当はどこかで心惹かれていたのかもしれません。
何事も決めつけないことですね。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

人からどう思われるか。

このテーマは定期的に巡ってきます。noteの記事でもこれまで何度か読まれたのを覚えている方もいらっしゃるかもしれません。

コーチとして1対1の関係では、どう思われるかはほとんど気にしなくなりました。しかし、食堂をはじめて、あらためて不特定多数の人からの評価というテーマに直面しました。そして、再び同じテーマに向き合わざるを得なくなりました。

小中学校でいじめにあい、どんなに努力しても嫌われてしまうという体験をしました。「嫌われることを許せない」というところからのスタートでした。

あのころは日々血の涙を流しながら、人も自分も許せませんでした。人にも自分にも、ものすごく過敏なところからスタートしました。これは論理で解決できるものではありません。

あなたにも、どうにもならないテーマがあるのではないでしょうか。

何度も何度もめぐってくるテーマを避けることはできません。

だれしも、与えられたテーマがあります。

儒教の聖典である論語に「五十にして天命を知る」という言葉があります。

随筆家の若松英輔さんは著書の中で、「人は五十歳になると自らに与えられていた人生の問いに気がつく、と孔子は語った」と述べています。

私は子供のころから、なぜか50歳からが人生の本番だと思っていました。それは今も変わっていません。ただ、天命とは、何かすごいことを成し遂げるということだと思っていました。

しかし、今はこの若松さんの言葉がよく分かります。

おかげさまで、いろいろな経験を重ねる中で、今、人生からの問いに気付きはじめています。

「天命」というのは、よいものでもないし、悪いものでもない。ただ、あなたが受けいれて生きるべき人生のテーマなのです。

まさに50歳からが勝負。

まだ50歳を迎えるまでに時間がある方は、ぜひいろいろな準備をしてください。いろいろな体験をして、いろいろな苦労をしてください。

そして、50歳を迎えた方は、あなたの天命に気付いているでしょうか。もしまだという方がいらっしゃったら、この記事が何かのきっかけになりましたら幸いです。

天からの問いに気付ける人生を送れますように。心から願っています。





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