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子育ての目標は、子どもの"商品価値"を上げることじゃないんよ
「いい大学に入ってほしい。」
「いいところに就職してほしい。」
「学校に行ってしっかり勉強していい成績をとってほしい。」
こんな願い、親ならば当然子にもつものだ、という人もいるかもしれない。
今日はこの子どもへの願いというか、子育ての目標みたいなものについて書いてみたい。
分かりやすく、「いい大学に入ってほしい。」という願い一本に絞って考える。子どもにいい大学に入ってほしいみたいな願いってつまりどういうことなんだろう?
いい大学に入ってほしいって願いは、不自由のない生活を送ってほしいという願い。
ぼくは、このいい大学に入れるようにっていう願いは、子どもに不自由のない生活を送ってほしいっていう、親の切なる願いだと思う。
(親の承認を満たすため、ってこともあるかもだけど、今日はおいといて…)
ぼくもそう。ぼくも子どもに、不自由のない生活を送ってくれたらなとは思う。
ただぼくは、
不自由のない生活を送るために、いい大学に入ってほしい
とは全く思ってない。
なんでかっていうと、
いい大学に入ってほしいって願いは、子どもを商品としてみること
になると思っているから。
どうして?なにいってんの??
っていわれるかも。
でも、
どうしていい大学に入ってほしいのか?
どうしていい大学に入ることが不自由ない生活を送ることにつながるのか?
を考えると答えは出ると思うんだ。
いい大学に入る。それは、いい企業に就職するためのブランドを手にすること。
いい企業にはいる。その先にはいい給料があり、いいキャリアがあり、安定した生活があるって信じられてる。不自由ない生活がある。
ちょっと調べてみたら、いわゆる勝ち組企業なんて言われる企業の倍率は軽く100倍超え。受ける前から諦めてる人も考えればもっともっとだと思う。
そこに入ろうと思ったら、数多の就活生の中で、魅力的な人材に見えないといけない。
そなためには学歴ってわかりやすいレッテルがいる。
立派な大学名というブランドを手にして、自分に貼りつけることで、自分を魅力的に見せることができる。
そうすると、たくさんの就活生、人材という名の商品の中から、選んでもらいやすくなる…
そう。これが、子どもにいい大学に入ってほしいという願いが、子どもを商品として見ることになる理由。
さらに、いい大学に入れることを見据えた子育てはこうなる。
いい大学に入ることを願った子育ては、子どもの商品価値を上げるための子育て
子どもが社会に出たとき、就職するときに、魅力的な商品として映るように。
これってとっても怖いことだと思う。
だってさ。こどもの好きなこと、やりたいこと、得意なこと、このこの存在が、全部この子どもの商品価値が上がるかというフィルターにかけられるってこと。
魅力的な商品になりうること以外の、その子の大事なほかの部分が、切り取られて捨てられてしまうってこと。
じゃぁさ、そしたら子どもはどうなっちゃうのか?
商品価値をあげるための子育ては、子どもがやりたいことを分からなくさせる
魅力的な人材になるために、他の人からみて見栄えのいい商品になるようにがんばる。
そしたら、他の人からみて魅力的なこと以外のことはなんだかよくないことになっちゃう。
他の人から見てとかじゃなくて、本当は自分って何がやりたいんだっけ?なにが楽しいんだっけ?がわからなくなっちゃう。
自分が何を感じているのか分からなくなっちゃうんだ。
こうなるともうえらいことだ。だってこういうことだもん。
勝ち組になっても負け組になっても、どっちにしろ苦しい
魅力的な商品になって勝ち組になっても、そのとき自分がやりたいこととか楽しいことはもうわかんない。
そして、勝ち組よりも圧倒的に負け組が多い…。
もし負け組になったら…自分のことがわかんない上に、売れ残ったいらない貧相な商品って事になってしまう。
こんなのつらすぎる。ぼくは、勝ち組も負け組も、どっちにしろおそろしく悲しくて、とんでもなくつらいことだっておもう。
問題は、子どもを、人を、商品として見るってこと
あまりに当然のことのように行われすぎているけど、ぼくはこれが大きな問題だとおもう。
子どもに不自由のない生活を送ってほしいっていう願いが、子どもを商品としてみることになって、苦しめることになってしまう。
ぼくは、この子供を、人を、商品として見るってことが、ぼくらを苦しめる大きな呪いのひとつだって思っている。