#22日目:室生犀星 『或る少女の死まで』
室生犀星という小説家をご存知でしょうか?
小説家ではなく、詩人としてご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
『或る少女の死まで』は室生犀星の自伝的小説です。
まだ若く、苦しく貧しい日々をすごす犀星。
ある夜、そんな日常にさらに暗い影を落とす出来事に巻き込まれてしまいます。
鬱々とする毎日。
そこから抜け出すために転居した先で一人の少女と出会います。
まだあどけない、無邪気な中流階級育ちの少女。
その少女との交流の日々がこの小説です。
大人になると、純粋だけでは生きていけないという現実にぶつかる犀星。
不安や焦燥を抱えながら苦悩の中で続いていく生活。
そんな自分とは縁遠いところで生きる快活な少女の姿に、かつての自分を思い、今の自分と対比し、その少女の一挙手一投足に心を浄化されながら、犀星は思索の日々を過ごします。
「ああいう子供を見ると何とも言われない綺麗な気がするね。」
「僕はあの子供の顔を見た瞬間、いきなり花のようなものを投げつけられたような気がしたのだ。
第一あの柔らかい色彩は、ああいう子供でなければ見られない色彩だ。
少しも雑ったものがない本当の色だ。」
「余りに清浄なものと、余りに涜れたものの相違は、ときとすると人間の隔離を遠くするね。」
かつては自分もそうだったはずの無垢な少女の姿と、
すっかり汚れてしまった現在の自分の姿…
犀星は深く自分を振り返り、一度故郷に帰ることを決めるのです。
文中の詩人らしい表現の数々は印象深いものが多く、読む人の心に沁み込んでいきます。
さて、
近年私は、年に一度はアジアの島々を旅することにしています。
海沿いの、現地の生活を垣間見れる場所に滞在し、
そこで出会う人々との交流や、とりわけ子供達の写真を撮ることが旅の楽しみになっています。
そんな時に、必ず頭をよぎるのがこの一節。
「誰でも一度は、この子のように美しい透明な瞳をしている時期があるものだ。
五つ六つころから十六、七時代までの目の美しさ、その澄みわたった透明さは、まるで、その精神のきれいさをそっくり現わしているものだ。
すこしも他からそこなわれない美だ。内の内な生命のむき出しにされた輝きだ。」
そんな澄みわたった瞳を持つ少女を探して、私はまた旅を続けるのです。