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思考の切れ端 「侵食という存在」
キャラクター設定資料集のような物だと思って下さい。リアルが一部混じりますが、何処からフィクションで何処からがリアルか、読んでいる人には見分けがつかないでしょうから。
理解出来ない、体験していない他人に非共有感覚を説明するのは骨が折れるのです。だからフィクションという事にさせて下さいよ。
刺激的なイントロ
私の背中には「侵食」という触手が生えている。色は黒色で計8本。
私自身強めの幻覚を持っており、それが自分に過剰な害を与えないのでそれを観察対象として見ていたが、その用途がハッキリしたので記しておこうと思う。
成り行き
とは言ってもこの触手を作り出した元々の理由は明白だった。「自分を殺す為」であった。
色々あって人間という存在そのものに嫌気が差していた自分は、「人間は何故そんな残酷なことをするのだろう」と思った。何処もかしこも傷つける人で溢れているのは何故なのだろう。
そしてその結果辿り着いたのが「自我という視野狭窄の元を持っているから、他人の心も分からず傷つけるのだ」という結論だった。
とても賢い結論だと今でもそう思うよ。その改善が不可能な事を除けば。
だからまず手始めに「自分以外の自分」を持とうとした。多重人格になる事を望んだ。
同時に自分自身に対して「死ね」と何回も言い続けた。配布物の裏は死ねという文字で溢れた。それをやり続けた。なんて事はない。自分で実験をしたのだ。それで死ねるかどうか。
もしそれで死ぬことができたら、これほど素晴らしい聖人が出来上がる事は無い。
結果?まぁ、0になっただけだよ。ちゃんと壊れて死ねたけど、それで生きてても意味はないさ。
さて、死ねと言い続けて、或いは多重人格のプロトタイプとして「複重人格多分法」という理論が自分の中で確立し始めた頃。大体4〜5年くらい経った頃だったか。
複重人格多分法…
ざっくり言うと「多重人格者」の脳内会話可能バージョンを頭の中に内在させる事で、その2人の心の中を共有できるようにし、他人理解を円滑にしよう、という方法。必要なら何人でも増やそうとしたが、意図的に行うには3人から2人くらいが限度だったし、それだってちゃんと存在したのかどうか分からない。
自分が乖離し始めた。症状はテンプレの通り。自分がこの場所に座っている感覚がなく、何をしても生きている実感もない。命に意味なんてないと強く考えるようになり、「人間」という存在が何処か遠く、どんな他人でもアイドルのように眩しく見えた。
喋っている肉体の後ろに視界がある感覚。脳の後ろ辺りで物を見ている感覚。じゃあ喋っている自分は誰なのだろうと思った。
すこぶる順調だった。このまま私が壊れれば、自我の視野狭窄に捉われず、誰も傷つけない人間の存在が此処に証明される。
侵食、芽生える
そこから更に2年程度。大学一年生の頃。
背中には黒い触手の幻覚を見始めた。自分はそれを「侵食」と名付けた。
侵食はその触手で自分の心臓を抉り取って地面に叩きつけで自分を殺した。それで良いと思った。最高だった。そうやって死ね、何度だって死ね。
良い道具を手に入れて、自我の破壊は加速した。乖離も酷くなった。自分で自分の事を認識出来なくなった。身体の事をまったく理解できなくなった。無理をしている事を判ろうとせず、倒れる事が何回かあった。
…あれ、これ操作可能か?
無理だコレは。
一回派手にぶっ倒れた時、世界の全てが無に帰した。味もしなくなった、感動も消え去った。何もかもがバラバラでどうでもよくなり、意味も価値も消え去った。
こうなると自殺すらどうでも良くなる。価値も理由もないから。
さて、ここで考え直した。「これは自分の求めた物だったか?」と。
元々は他人理解の為の自我の破壊であった筈だ。確かに自我は破壊されたが、これでは他人を蔑ろにする事でさえ簡単に出来てしまう。すべては無意味で無価値なのだから。
ついで、コレまで行ってきた「完全な相互理解」の為の芸術活動、全て仔細を伝え切る為の表現活動も、大概殆ど伝わらないのだろうな、という結論に至った。
自我を破壊した所で他人の理解は出来ない。如何にメソッド演技を活用したとしても、それはその他人そのものではない。自我を壊して組み直す事で別の人間にはなれても、その人とは遺伝子も経験も違うのだから。
確かに他人を思いやる事は出来るが、そこまでしか出来ない。他人の事を分かったフリをする事しか出来ない。
それに気付かされた時、私は侵食を正しく、自我殺しの道具として使うのをやめることにした。
そして「他人を傷つけない」という選択をするのではなく、「他人を傷つける可能性をある程度許容して、もし傷つけたら誠心誠意謝る、出来ることをする」という至極真っ当な結論に辿り着いたのだった。
それで、侵食の新しい使い道とは?
元々この侵食、自分殺しの為の強力なイメージ世界への鍵として使っていた訳だが、
(自我という強固なイメージを破壊する為の物だから、当然強くなければならない)
イメージ世界への没入とあらばなんでも出来たりする。謂わば「現実への認識をイメージや想像、仮定で書き換える」事が実際に侵食がやっている事だった。
そうして「自分」という実在を「存在しない」「殺し」「死んでいる」というイメージで何回でも書き換える。謂わば自己暗示の強力版であり、洗脳に匹敵するレベルで強い。
じゃなきゃ固い自我を殺すなんて出来ないだろうし、少なくとも自分の自我を殺せる時点で、大体のことはなんでも出来る。
緊張する場面を緊張しなくしたり、他人への評価の認識や印象を書き換えたり、まぁメソッド演技とか…演技力は洗練されてはいないだろうけど。一応脳内だけならどんな人間にもなれるという事。
なのでそういう使い方が一つ。
後はその使い方の延長として「他人を殺す」という使い方がある。
とは言っても無差別に殺すのではなく、自分に害を及ぼし、かつ相手に明らかな悪がある場合、「その相手を自分の世界から徹底的に排除する為の残忍さを得る」為の使い方。
そういう人間に「為る」為の使い方である。メソッド演技としてはこの使い方が多くなりそうだ。自分に足りないのはこういう切り捨てる行為だと思うから。
後はメソッド演技を使った不完全ながら出来る範囲の他人理解と、それを使った芸術活動。これで3つ。
これら3つが、今の所の侵食の新しい使い方だったりする。どれも積極的に使っていくような物じゃないね。1番目だってメソッドなんて使わず慣れていった方が結果的に楽になるだろうし、メソッド演技を使った芸術活動なんて、正直言って寿命が縮みそうで嫌だ。
まぁ、侵食が萎れるならそれはそれで。自分は侵食の事が好きだったけれど、それは自然な死だと思うから。
結びに
…コレまでの話、どのくらい本当なのかって?
まぁ、気にしないほうがいいと思うよ。貴方には理解し切れない。悲しい事じゃなくて、ある程度からは不理解は当然の事。
私は私、貴方は貴方。
同じ物を見ているようで、それによって呼び起こされる認識は違うのだから、幾ら言葉を尽くしても伝わるはずがないんだもの。
だから、一つの物語として楽しんで貰えると嬉しいなと思うよ。それだけかな。言えることは。