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海月記

 私の友達の悠樹は、頭が良かったのです。
 彼は全てを単調に感じていました。
 彼は多くの事をシンプルに説明する事に長けており、また彼は多くを知っていました。私も彼に多くの事を教わったものです。
 他方、悠樹は無限を求めていました。魔法という言葉をしきりに口にし、「無限の魔法の正体を突き詰める為に学んでいるのだ」と言っていました。

 私にはその言葉の本意は分かりませんでしたが、彼が何かを強く求めている事だけは感じていました。

 やがて、悠樹は小説を書き始めました。
 あくる日もあくる日も描き続け、小説家になると言ったっきり、碌な職に就く事もなく書き続けました。
 お金は当然足りないので、働く事になるのですが、悠樹にとってはバイトはとても辛かったようです。
 そしていつの日か、悠樹は人並みの生活を手放しました。バイトも辞め、借りていたアパートから出ていき、何処かに行方をくらませました。

 さて、これからの話は悠樹が行方不明になって数年後。警察も探すのを諦めかけていた時の話です。

 私が尋ねたとある森の中で、私は空を飛ぶ海月に遭いました。海月は私に触手を伸ばしてきました。握手をしたかったようでした。
 私が手を伸ばすと、海月は何かを思い出したかのように手を引っ込めて、「危なかった」と言うのです。

 私はその声に聞き覚えがありました。「その声、悠樹か?」と。

 海月は寂しそうに空中を漂った後、
「そうか。ここまで来たんだね。」
 と重く答えました。

 「悠樹は…海月になったのかい?」
 「そう。僕は人ならざる物になってしまった。すっかり本能や身体の殆どは海月だよ。」

 悠樹は自分の触手を眺めるような仕草をしました。
 「けれど、幸いにも自我は奪われていない。ただ人間としての本能と海月としての本能が入れ替わっただけだ。だから、何も問題ないよ。」

 悠樹は確かめるように、或いは言葉を噛み締めるように、慎重に話し続けました。

「僕は人としての全てを手放した事を、後悔していない。自分の魔法を追い求めて、別の物になったとしても、何も後悔していないんだ。」

 他人の考えそうな事を先回りして話してしまう癖は、まさに悠樹そのものでした。

 「それでも、せっかく君が来てくれたんなら、歌の一つでも聴いていってほしい。」
 そう言って悠樹は短く歌を歌いました。『魚の歌』と題されたそれは、とても抽象的でしたが、今でも記憶の中を克明に漂っているほど、不思議な印象と魅力を纏った歌でした。

 「小説じゃなかったのかい?」と私が聞くと、「すっかり求める物が変わってしまったんだ。」と悠樹は答えました。ハハハ、と乾いた笑い方をする彼の人の姿が、うっすらと海月の影に見えたようでした。

 「悠樹は、これからどうするの?」と私が聞くと、彼は「どうもしないよ」と冷たく答えました。

「クラゲでも人でも、どうせ死ぬよ。名を残すなんてのは幻だ。作品だって多少の延命にしかならない。だからこそ、僕はクラゲになって、魔法を追い求めた事を後悔していないんだ。」

 最後にそう言って悠樹は、森の奥へ消えていきました。

 私はこうして、悠樹の歌を『魚の歌』として此処に記す事になったのです。私が悠樹のために出来る事は、最早それしか無かったのです。

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