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【思考の切れ端】魔法と思考
何も知らないけれど、喋らないといけない時。喋らなくても良い時。余計な事をしてしまう時。まぁ、ある。許されない事もある。簡単に許される事もある。
ただ、単調に眺めて、軽く、忘れて、締め上げられて、締め上げているのかも知れなくて、忘れる。
理解されないのでも努力が足りないのでもなく、本質的に相互理解が不可能なのだという事。嘘をつく。何もしていない。けれどそれすら魔法になる。それを当てにするのがとても馬鹿らしく思う。
当てにするのが…ねぇ。
本当に根拠のある何かを知ってアドバイスをする人なんて、居ないだろ。自分の経験したことしかアドバイス出来ない。自分の世界で起こったことしかアドバイス出来ない。自分の世界で起こった事と他人の世界で起こった事が全く同じなんて有り得ない。
だから、自分は誰にもアドバイスが出来ない。違う事だから。アドバイスをしている人は皆嘘つきだ。それでもアドバイスをしている。それは、そのような事実を知った上で、それでも役に立てばと思うから。
新たな選択肢の一つとして、或いはとある選択肢の有力さを示す物として。
それでも、やはり嘘をついている。
この申し訳なさを保留して、と誰かは言った。保留してどうするのか。この嘘をついているという現実との乖離に目を背けて、全くクリティカルではないアドバイスをして、一体何になるというのか。
「考えるのは向こうの人がやる事だ。」
じゃあ考えられない人はどうすれば良いのだ。魔法に囚われた人間をどう救えば良いのだ。
「他人には救えないよ。魔法に囚われっぱなし
だ。」
何も言えない。残酷過ぎる。必ずしも考えられる環境を与えられる訳ではないというのに。情報を潤沢に得られる状況にあることも、それを噛み砕ける環境にある事も贅沢だというのならば、せめて「考えなくても救えるアドバイス」が出来なくてはならないのではないか。
「そんなのあったら皆欲しい。テレパシーみたいな物だろ。それに、そういうあり方はやがてその人をゾンビ、或いは奴隷にする。主体性の確保の為に自分で考えるべきだ。」
不可能だと知った。ならば思考を贅沢ではない物にするしかない。その為の努力をするべきではないのか?学校の設立の補助、Youtube大学の補助、基本的な思考を促す場所の確率。そうする事でようやく、完全に理解させることが出来ない自分への免罪符となる。嘘しかつけない自分への免罪符となる。
自分の嘘を嘘だと言って欲しい。不正確だと言って欲しい。否定して欲しい。それでようやく、自分の心地よい居場所になる。
他方、そういう居場所じゃない場所がある。論理的な議論を求めていない場所。コミュニケーションが行われている場所。魔法だけを交換していれば良いというような場所。
「思考を促す場所への補助」をして、嘘しかつけない自分への免罪符となる。申し訳なさがようやくそれで保留出来る。出来る限りのアドバイスをして、それを噛み砕いて貰える。神授ではダメだ。噛み砕かれなければ意味が無い。そういう世界にしなければならない。
だからって、自分のアドバイス、仮説は適当で良いのか?そんなはずは無い。中身がない物になるから。受取手にとって意味がなければ…意味が無い。
「全力で本当を考える。それを当人が嘘だと棄却する。」
それでこそだ。