【思考の切れ端】針がふにゃり
自分はずっと何となく孤独で、伝わらない伝わらないといつ迄もずっと嘆いていて、それが嫌だから自分は作品作りをしてきた、って面もあって。
「言語じゃ伝えきれない自分の全てを伝え切る」為に、小説でもイラストでも書いてきた。魔法に手を伸ばしたりもした。
けれど、結局、そこには断絶があった。
自分が思いを込めて表現した物は、現実になるとただの事実になるし、ただの事実は受け取り手の認識バイアスを通して認知される。
小説の隠喩や芸術にその枠組みを超える何かを望んでいたのだけれど、そんな物は有り得えなかった。
そもそも自分が抱いた思いでさえ、事実からの変換であるのなら、まぁ、思いは存在しないという事になった。
脳波を直接交換するくらいでしか、質感や痛み、感情を確かに伝える手段は無い気もするし、それも頼りなさすぎる。同じ電気信号で同じクオリアや感動、絶望、苦痛を与えられるか?なんて、怪しいもんだ。
結局私達の感情は、細かいパーツから構成される全体性の靄なのだと思った。
電気信号、記憶、視界。そういったものから自分の感情が構成されるのなら、自分の一部だけを伝えても同じ感情は想起されず、全く同一人物でも無い限りは正確に伝えられる事などない…
って、このどうしようもないクソみたいな人間の間の不理解を、一体自分は何度論じれば気が済むのだろうか。
それでも、それが無くても、マシにはなった。ある程度は。他人も自分と同じ苦しみを味わってるから、他人に自分を注射しなくても分かる人は分かるのだ、という事がなんとなく納得出来るようにはなった。ただ分からない人には何をしても分からない。今の所は。それをどうにかしたいなら作品作りを続けようという事になるが、今の自分はそうでもなく。
「何をしても理解不可能な人は居るのだから、無理に割り込まず、自分を理解できる素養、地盤がある人に少しだけ自分を差し込んで理解してもらう」
という感じにはなっている。
しかし、不理解を前提に生きなければならなくなった。
【不理解が蔓延してる中で、似たような体験をしてある程度共通概念を持ててる、自分を伝える為の注射針をほんの少し射し込むだけで理解してくれる人がいる事自体が嬉しい事】なのだと、
そういう感じにはなっている。
さて。それでも僕は生涯孤独という事になった。一瞬だけ孤独を紛らわす事は出来たとしても、本質的にはきっと孤独だ。
友人と楽しく話したり酒を飲んだりしても、それは何の本質的解決にもならない、と。
今友人がいたとしても、老いて先立たれれば僕は孤独になるから、きっと縋る物は無くなるんだろうなって思ったりして。
それで、まぁ、一応、【自我に縋らない、自意識を手放す】なんて悟りめいた認識は、
自分の変化を認める、自我というものがテセウスの船であり、全く絶対的では無いということを認めて手に入るのかもしれない。
自分は多分そうだと思う。自分なんてのは絶対的でも何でも無い。環境によってifが幾つも発生する様な、揺らぎのある存在で、それでも自分にはそのifの可能性が見えないから、これが唯一の自分だと信じている。
アイドルがアイドル出来ているのは、その裏が見えていないからである様に、自分が自分でいられるのは「そうじゃ無い自分」が見えていないから、自分という物を客観視して冷静に相対化出来ないからこそ、自分、或いは自我ってものが存在できている気がする。
ドッペルゲンガーに会えば自分が殺されるのは、そういう理由からなんじゃないだろうか。
ただ、孤独、不理解の解決の為に自我を手放すのは、リスクとリターンが見合ってない気もする。
今の自分は自意識を変化の濁流の中に手放しかけている。
話を聞いてもらえない、理解して貰えないならば、自我なんて持っていても無駄…なのだろうか。自我は相互交流の中で生まれる物だと聞いた。他人から認識されて始めて自分が定義される、無人島では自我は成立しないとも。
確かに自我は流れるように変わる物だ。縋り付くような物ではないのかも知れない。嫌な物への執着はあるけれど、いつ迄も嫌だとは言ってられない。
【自我とは変わる物だと思う一方、手放したくない物があった気がするのに、それが思い出せないでいる。】
自分はそれを、手放したくない物を作品に落とし込めているのだろうか。いつかスッポリと落としてしまいそうで怖く、しかしそれも仕方のない変化だと認めろというのだろうか。