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【短編小説】終点、サザンクロスにて。

 その電車は銀河を走っていた。具体的には地球から、終点である南十字座まで。

 通常の電車は観光地や市役所等、意味のある場所に駅を設けるものであるが、何せ宇宙はとても広く「意味」のある場所などそうそうないので、天のレールは地球から南十字座までほぼまっすぐに引かれていた。
 天の川の星々をバラストに、彗星の冷ややかな尾をレールにしている以外、何の変哲もないその電車は、客を遠い別世界へと連れていくこともまた、ほかの電車と共通であった。ただその終点が、どこか遠く、遠く、人の手に届かないところまで伸びていることが、私をつかの間の愚行に導いた。 

 つまるところ「魔が差した」のである。

 魔の差し方がロマンチックでよかったと思った。これが電車内の痴漢でなくてよかったと。そんなくだらない可能性を抱えるしょうもない人間以上の何物でもない私は、それでもこの高貴な地球の上に生きていたけれど、それも今日限りになるかもな。なんてことが私の頭の中によぎった。

 旅の道中で、あるいは終点で誰が待っているかも知らず、私は電車に乗り、当てのない旅を始めたのが今朝のことだった。あっという間にその電車は宇宙に飛び出て、地球に今日の仕事を置き去りにした。今は終点までの道程の内20%ほどを完了している。

 さっき、彗星が窓の外を通り過ぎた。火星とすれ違った。木星が挨拶をした。私はお辞儀をし返す以外に礼の返し方を知らなかったので、電車の中から控えめにお辞儀をした。そうやって偉大な存在が電車を横目に、ただただ自分の居場所を守っていた。内心、「ただそこにいるだけで威張れるんだから、楽なもんだよな衛星って」なんてことを思っていた。上司の姿がいつだって脳裏にちらついていた。

 偉大な存在の表面に矮小な存在が息づいているのもまた、地球と同じだった。

 電車での道中、いくつかの「存在」が乗り降りしていた。人ではない、と思う。それでも見た目が人とよく似ていた。外見上はなんの違いも分からなかった。ただ何となく黒い気がした。物理的にではなく、オーラというか、まとっているものが黒い気がした。

 そんな存在がいくつか、生きているかのようにドアから乗り降りしている。二足歩行で四肢もあり、宇宙の黒さを引きずっているかのように黒みがかっている彼らは、けれどもほとんど人間のように見えた。

 さて。と考える。知らない星の知らない場所からこの電車に乗ってきた彼らを、私はどのように認識すればいいだろうか。宇宙に存在する仲間だろうか。敵だろうか。少なくとも私たちと違う存在であることは明らかだが、それでも敵であるとは限らない。

 ふととある情景を思い浮かべる。とても馬鹿らしい情景だった。
「大体ね。」
 ため息や失望の混ざり合った感情とともに吐き出したその言葉は、憂いのどどめ色をまとっていた。

 人間社会の日常に聳える会社という存在を思い出す。そこに存在する2体の矮小な存在を思い出す。片方は威張り散らし、もう片方はへこへこしている。とてもみじめだと思う。まあ、そもそもへこへこしている矮小が私なのだから、そのような客観的視点はあり得ないのだけれど。もう片方の威張り散らした上司に比べれば、今目の前で、銀河を走る電車に乗り降りする矮小な存在は全く問題にならないのだろうと思った。

「そんなくだらない上司に比べたら、何もしない彼らは十分私にとって味方じゃないか。」

 小さくつぶやいてその内容を自分の中に反芻させる。自分で自分の言葉に納得する。味方でもないが、敵でもない。それだけで十分私にとっては嬉しかった。それでいいじゃないか。それ以上何も考える必要はない。

 そう。それ以上は、何も。すれ違う存在の中に、よく見知った顔があったことも、忘却の中に忘れてしまえばいい。

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「貴方はどこまで行くのですか?」
 車内改札をしていた車掌にそう聞かれて、わたしは微睡に揺らぐ身体をほんの少しだけ起こした。いつの間にか寝ていたらしかった。

「いえ、別に当てがあるわけでも無いんです。」
 電車の中は運転手を含めて、たった二人だけだった。いつのまにか乗客は降りてしまったらしい。
 宇宙を走る電車に揺られ、どんな夢を見たものかと少しばかり記憶のふちを掘り返してみたが、大した記憶は残っていなかった。吉野家の牛丼を食べた夢を見た気がする。宇宙に出てもそれか、と可笑しくなった。

「もうすぐ終点です。みなみじゅうじ座です。あそこはとても小さくて、貴方が居たであろう地球からもほんのりとしか見えません。それほどに小さく誰も知らない星ですから、きっと誰もいない事でしょう。いえ、星間電車の運転手である私でさえ、誰かがいた事を覚えていません。そんな場所に貴方は行くのですか?」
 私がいつのまにか買っていた切符を確認した後、車掌は私自身に興味を持ったらしく、眼に携えた瑠璃色の光を静かに揺らめかせながら、低い声で尋ねてきた。

「えぇ。行くのです。ほんの少し。ほんの少しだけ、疲れてしまったのです。人の輝きに当てられて、少しばかり休みたい気分なのです。だから私には、その位が丁度いいのです。そう言ってしまうとみなみじゅうじ座に失礼かもしれませんが、それでも私には、あの落ち着いた、まるで深海に沈み切る直前のような、その微かな光が必要なのです。」

 変な言い回しになったと、我ながら思う。けれどここではそれがマナーだ、と何となく感じ取る。それは相手によって話し方を変えるような、いつもは乱暴な口調の母が電話口では全く上品な他人になるような、そんな程度のマナーだったけれど、そういう直感はよく当たるものだ。つまりこの車掌は『そういう存在』なのだ。

 ポエティックな存在。ロマンティックな存在。格言のような理想論が理想論のまま丸々っと存在することを信じるような、起業家に向いてるタイプ。

「であるなら、この電車はその光までの道のりを心地よく提供できるものと自負しております。何せ道中乗り降りしているあの方々は」

 車掌はそこまで言って、ほんの少し時間を止めた。

 数瞬前、車掌の人間性解析をしていたはずの私の思考もどことなく時間の鈍さを感じ取る。もはや窓から見える星々も掠れるほどであり、真黒に塗りつぶされた窓の外と動きを止めた車掌が、本当に私の時間を止めている。私の意識は遠く、遠く、細く、長く、引き伸ばされて、赤く、紅く、過去の傷が未来である今に絡みついて、

 ただ、亡くしたはずの彼女が、やっぱりあそこに立っていたのだった。車掌の隣に、亡霊のように、ただ二人きりだったはずの車内に、立っている。

 どうして、と声を紡ごうにも声が出ず、彼女の手を取ろうにも手は届かず、やっぱり君はそうなのかと、時間が動き出す前にあきらめた。そもそもそんなはずがないのだ。私と彼女が再び手を取り合うことなんて、あり得ないのだ。

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 かたん、と電車が一揺れする間に、世界中の人間が心臓を何回も鳴らした。まるで宇宙全体が息を吹き返したかのように、止まっていた時間を取り返すかのように、時間が高速で流れたような気がした。
 車掌は数万年ぶりに言葉を紡いだ。

「とても静かでしょう。地球に生きている方々が生の陽光で自ら輝いているのだとすれば、この電車に乗られるのは月のような輝きを持つ方々ばかりですから。」

「えっと、ごめんなさい、何の話でしたっけ」

 間抜けな顔をさらして私は車掌に再度問いかけた。あまりにも時間が乖離しすぎてしまって、前の言葉を覚えていろというのが無理な話であった。

「あなたが人の輝きに疲れてしまった、という話ですよ。それで道中旅を共にする、ほんの少し黒い方々は、月のような静かで永遠の輝きを持つ方々ばかりですから、一緒にいてもあなたの心を疲れさせることはないでしょう。と、そういう話です。」
 私は車掌からほんの少し目をそらした。そうかな。そうだったかな。意識がブラックホールに取り込まれたかのように引き伸ばされる前に、目の前にした彼女を思い出して、釣られて彼女の生前を思い出して、いろいろあったことを思い出して、家庭菜園が好きだったことを思い出して、子供が欲しかったこと、不妊治療をしたけれどどうしようもなかったこと、彼女の友人に貸したお金が返ってこなかったという話。彼女を取り巻く現実は理不尽で痛くもあった、苦しくもあった。

 でも彼女自体は恐らく。

「ええ。その通りだと思います。とても静かで、美しい人間だった。」

 そう評されなければならない人間だと、私は思った。それ以外の選択肢を、私は持ち合わせなかった。

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 パンタグラフがかすかな陽光を吸い、車軸の動力とする。レールである彗星の尾を駆けながら、ただ南十字までの道のりを進んでいる。
 エーテルに満たされた宇宙空間をかき分けて、あるいは空っぽであるという異常の中を電車という日常が突き進んでいく。どちらが異常なのか分かったものではなかった。電車の中には静謐が流れ、差し込む光はだんだん、だんだんと微かになっていくばかり。

 陽の光もなく、時間からも遠くかけ離れた場所での事だから、一体どれほどの時間その沈黙が支配していたのかは分からず、時間で物事を計ろうとするのはもうナンセンスなことなんだと気づいたとき、「そうか、私は地球にいたときには時間に支配されていたんだな」ということを逆説的に思い知った。くだらない気づきだった。

 3つほど星座を超えた後、運転手がまた私のそばに近寄ってきた。

「私も、お供しましょうか。」
「え?」
「いえ、私にも勿論仕事はありますから、ほんの少しの間だけではありますが、みなみじゅうじ座に降り立って、ただその表面を踏みしめて…そう、電車のペダルじゃない、大地というものを踏み締めて、それで煙草の一つでも吸ってみたくて。」
 ペダルで操作するなんて路面電車のようだと思いながら、引っかかった点を口にした。

「煙草吸われるんですか?」
「ご迷惑でしたか?」

 私がスモーカーを同伴させることをためらったのは、気管支にちょっとした病気を抱えているのが理由だった。

「いや、失礼しました。」
 車掌が何かを察したように自分の提案を取り下げて、車掌室に引き下がろうとしたとき、私の「魔が差した」。

「いや、是非、お供しましょう。ただ、煙草は少し、都合が悪くて。口が寂しいのでしたら…何でしょう、何か咥える物…」
 そう思っておもむろにビジネスバックの中を探ると、ポッキーが出てきた。電車に乗る前にコンビニで気まぐれに買ったポッキー。

「これ、どうですか。お菓子です。チョコの。」
「知ってますよ。私もちゃんと人間ですから。」

 互いに微笑むその様子は、静かで、どこか寂しそうで、多分、どちらも別れを知っているのだろうなと。その時互いに察して、それでも互いに踏みこむことをやめた。

 たどり着いたみなみじゅうじ座の駅は、ほんとうに何も無い場所だった。バス停が一つ。明かりが一つ。無人販売所にお菓子と野菜がころころり。後は沙漠のような、砂と岩。
 僅かな灯りで周りが昼のようであることに驚きを隠せなかった。だってそれ以外に光源は見当たらないのに、昼間のようで、それでいて光が目に痛いわけでも無い。とても心地良いと思った。

「此処はね。砂が光を反射するんです。月の出た雪夜を知っているでしょう。あれはとても明るい。それと同じです。たった一つのか弱い街頭の明かりを、砂が反射して。」
 すぅ、と運転手は深呼吸をした。

「此処の空気は、こんなにも澄んでいたんだなぁ。てっきり砂まみれで呼吸し辛いもんだとばかり。」
「降りた事が無いのですか?運転手さんなら、沢山此処にはよく来るのでは?」
「よく来るからです。よく来るからこそ、降りなくてもいいかと思う。すれ違い続ける、慣れてしまう。それは仕方のない事で。電車の運転手が好奇心に負けて、いつだって寄り道しっぱなしでは、運行時刻がずれてしまう。」

 「そうですね。」
 そう。いつも。そう。当たり前を当たり前だと信じてしまう愚かさと、それが失われた時のみじめさと、それでも日常を続けなければいけない辛さは、どうしても、どうしても。

「耐えられない。」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ、なんでも。」
 私は漏れ出てしまった思いを沈黙にほおり投げて、車掌にポッキーを差し出した。

「咥えます?」
「いただきましょう。」
 宇宙の端っこでポッキーを加える男性二人、という光景は中々滑稽だなと感じる。とても場違いでここにいてはいけないと思う。けれどこの宇宙の端っこにあった美しさが、ここから離れることを許してくれなかった。

 石くれをほんの少し蹴り上げて、見えていた無人販売所を覗く。何が売っていたのかというと、トマト、ニンジン、ジャガイモ、それからキャベツの種とオクラの種だった。

「ここの無人販売所には野菜が売ってるんですね。」
「そうですね。私たち地球人も食べられると思いますよ。多分害はないでしょう。」
「害というか、何というか…こんなところに野菜がある事が驚きです。育つんですか?」
「育つんじゃないですかね?分からないですけど。」
 ポッキーを咥えたまま、にい、と笑う車掌さんは、無邪気さの中に切望を。何か、本当に大切なものを失ったような切望を抱えていて、それが私にどこか身勝手な共感を抱かせていた。

「適当ですね。」
「そんな物ですよ。どれだけ突き詰めても理解出来ない事だらけで。現実ってそんなもんです。無理にわかろうとするような物じゃないのでしょう。このキャベツだってきっと奇想天外で前代未聞の人生を歩んできて、そんなキャベツの生き様をこちらが想像で勝手に規定してしまうのはあまりに失礼です。そうじゃないですか?」

 私は確かに、と思わされてしまった。ファンタジーを馬鹿にするわけではなくとも距離を取る生活をしてきた私にとって、『植物にも生き様とか人生とか意識とか、そういうものが存在する』なんて思考は、普段の忙しさで蹴り上げてしまうボールのような存在なのだけれど、

 何せこの場所自体がサザンクロスの果ての果て、ファンタジーの行きつく先である、と、そう考えると、私とキャベツの間に並々ならぬ因縁が芽生えてきたように思えてきた。私が今日ここに気まぐれで来た事と、キャベツが想像し切れないほどの道のりを辿り、今此処、みなみじゅうじ座の無人販売所に在る事が、それこそ天文学的数字を超えた奇跡とも言えるほどの確率で巡り合っている。

 この奇跡を手にしないで、いったい私の人生は何だったのか、とさえ思わされてしまった。ほんの一瞬だが。

「これ、買って帰ります。」
「そうですか。では彼処の箱に10円玉を。それで取引成立です。」
 私は十円玉3枚と、キャベツの種一袋を交換して。宇宙の果てで思ったことが一つ。
 つまり、私と妻が出会った瞬間は奇跡であったけれど、それ以降の生活が日常となったように、このキャベツの種との出会いが奇跡的でも、きっと日常になっていくのだろう、と。それが途端に怖くなる。

「やっぱり、私たちは繰り返すのでしょうか。たとえ苦しくても、痛くても、性懲りもなく繰り返して、それがどうしようもなく愚かで、みじめで、そんな日常から逃げ出して。」
 車掌は無人販売所に残るトマトをぼおっと眺めながら口を動かす。

「そうですね。多分、私たちはそんな存在だと思います。繰り返す。繰り返して、繰り返すことでしか成長できず、けれど近道なんてものも結局存在しないから、繰り返すことからは逃げられない。」

 一息ついた車掌はトマトに歩み寄り、それを手に取った。真っ赤なトマトは照明のほのかな明かりを反射して、彼らの視界内の宇宙の中で、唯一みずみずしいものとして認識されうるものとなった。

「だからそんな時、繰り返すことにつかれた時、ぜひともまた私たちの電車を利用してください。電車はいつだって乗客をどこか遠くの世界へ連れて行くものです。そういうものに私は憧れて車掌になったのですから、そういうものであるのです。」

 そう語りかける車掌は相変わらずトマトを眺めていて、その眼の奥に私は、なんとなく、彼が喪った物の正体を見た。

 夢を、失ったんだなと。けれど彼は夢を叶えていた。叶っていたけれど、夢は喪われていた。夢を叶えるとはそういうことだった。夢が現実になれば、夢は夢ではなく現実になる。夢の持つ無限性、可能性、未来は喪われて、そしてここにはただの車掌が残った。

 ロマンティックな彼にとって、現実はとてもつらい世界だったのだろう。だから彼はただの電車の車掌ではなく『星間』電車の車掌になったのだ。

 私は彼の傷に触れなかった。彼も私の傷に触れなかった。非日常の私達はただすれ違うことを選んで、その無言の契約が宇宙の端で為されていた。

「私は、帰ります。帰ろうと思うんです。」
「そうですか。では、お送りいたします。」

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 日常に戻るまではあっという間だった。あれほど長い道のりだったにも関わらず、南十字座から地球までは光のような速さで時間が過ぎていった。それは私がキャベツとの日常を内心少しだけ楽しみにしていたからかもしれない。

 また聳える会社に飲み込まれる日々が始まる中で、私の日常にキャベツが添えられる。1週間というキャベツにしては少し遅めの発芽をしたが、その姿に亡くした妻の姿を重ねてしまったのは、おそらく偶然ではないのだろうと。

 キャベツとの日常を大事にしようと思った。今度は大事に、大事に。道中すれ違った彼女が私を覚えていなかったとしても、私は私の新しい日常を始めるのだと。南十字星からはるばる来てくれたキャベツが、みずみずしく命を煌めかせている限りは、私はまだ、彼女のもとに還るわけにはいかないのだと。

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