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【一部先行公開】 バスケットボールの定理 【第7部より】 〜ホーバスVS恩塚論争の示すもの〜
本稿は「バスケットボールの定理」第7部に収められる予定の一節であるが、それ自体独立した論考である。
執筆の進捗が思わしくなく、第7部を書き終えるのがいつになるかわからないので、当面の読者の興味関心をつなぎとめるために一足先にその一部を公開することにした。しかし、まだほとんど書き進められていない第7部がこの先どう展開していくのか筆者といえど予断を許さないため、もしものときに備えて以下の定型文を一応載せておく。
下記の内容は予告なく変更する場合や掲載を中止する場合がありますので、予めご了承ください。
ホーバスVS恩塚論争の示すもの
ところで、一部SNS上で見られる、ホーバスVS恩塚論争に関しては、私は再びスピノザを引用したくなる誘惑を抑えることができない。この先は本稿の筋から外れた議論になるので、この論争に興味のない読者には、以下、本一節はまるまる読み飛ばしてもらって構わない。
例によって私の手元にある岩波文庫版『エチカ』の翻訳は難解なので、以下の引用では適宜 Project Gutenberg の英訳版を参照している。
誰もができる限り、自分自身が愛するものを他人にも愛させ、自分自身が嫌いなものを他人にも憎ませようと努力する。…(中略)…
私たち自身の好き嫌いが普遍的な承認を得られるべきであるというこの努力は、真に野心である。したがって、私たちは誰もが生まれながらに自分以外の人々が自分の個人的気質に従って生きるように望んでいることがわかる。このことをすべての人が等しく望むゆえに、誰もが他人の邪魔をし、またすべての人から賞賛され愛されようと望むゆえに、すべての人が互いに憎み合うことになるのである。
ここで使われている”野心”という言葉には注意が必要だ。
ベス・ロード(アバディーン大)とアレクサンダー・ダグラス(セント・アンドリュース大)によれば、スピノザは同意できないことには耳を傾けたくないという感情を野心(ambition)と名付けた。
野心とは、誰もが自分と同じように感じるべきであるという願望、自分とまったく同じように他の人にも考えさせ、感じさせたいという欲求であり、意見の相違は、合理的な意見の相違としてではなく、脅威として認識される。
彼らはこう述べる。
私たちのほとんどは、ソーシャルメディア上で、政治的な問題について自分たちの意見に同意しない人々とネガティブな経験をしたことがあります。彼らは、私たちの議論に参加する代わりに、私たちが異なる意見を持っていることは不道徳であり、無感情であると指摘するのです。実際、私たちの敵が耐え難いと感じているのは、私たちがその問題について彼らと同じように感じていないことです。
これは何も「政治的な問題」に限った話ではなく、話題がスポーツであろうと事情はほとんど変わらない。”彼ら”はほとんど議論に参加せず、ただ意見の相違を脅威と感じているだけのように見える。
したがって、ホーバスと恩塚、二人のなしとげてきた実績や選手からの両者に対する信頼の言葉をあえて無視し、彼らの内にある“志“を無価値なものと切り捨て、一方を過大に称揚して他方を不当に貶める言説は、スピノザの言う”野心”の発露にすぎないのでは? と疑わざるをえない。
急いで付け加えておくと、ロードとダグラスがすべての政治的意見の相違が脅威として認識されると言っているわけではないように、私もホーバスVS恩塚論争のすべてが、論者の”野心”の発露にすぎないと断じるつもりはない。ただ私の観察範囲にそのように見える事例がいくつかあったというだけである。すなわち、意見が違う人々への誹謗中傷、脊椎反射的反応の応酬、自分の方がバスケに詳しいというマウントの取り合いといった、なんのことはないSNSでは日常的にごくありふれたコミュニケーションの数々だ。
それらを見ていると、人は「すべての人から賞賛され愛されようと望」まなくてもいいんじゃないかな、と思ったり、(少し辛辣ではあるが)『エチカ』から引用すべきなのは、むしろ次の一文なのではないかとも思えてくる。
高慢とは、自分を高く評価しすぎることから生じる喜びである。
私たちがスピノザから学ぶことは、人間は17世紀から変わっていないということであり、この先22世紀になっても変わらないであろうというあきらめとともに私はこの論争を眺めている。( ロードとダグラスに倣えば、そもそも"論争"など起きていないことになるが……)
私は恩塚がウィザーズのミーティングで言うように「自分たちが世界を変えていくんだ」と単純に思えるほど楽観的な理想主義者ではない……。
ではなぜ、誰からも頼まれていないこんな文章を書いて、わざわざ他人に向けて公開までしているのか?
(次節へ続く)
ちなみにこの機会に書いておくと、こういった学術論文(?)や時代がかった哲学書の文体を模倣した文章を時おり挿入していくスタイルというのは文章が単調にならないように(読者を飽きさせないように)という読者サービスとしてやっている(この手法自体は高橋源一郎から学んだ)ものだが、私はアカデミシャンではないし、哲学の教育を受けた経験も高校での倫理の授業くらいなので、文献の引用の仕方など精一杯それっぽく模倣して書いてはいるけれども、厳密性は求めないでください……。
今回、ロードとダグラスの議論を引いてきたのも、私がどう訳していいのかわからなかった”ambition”の語(彼らによれば17世紀には今日よりも、より有害でより政治的だとみなされていた感情)について彼らが明快に解説している論考をネット上でたまたま発見したからにすぎず、彼らの議論がアカデミズムの世界でどれほど認知されているのか、それがスピノザ研究者の間でどれほど共有されているのか、なにもかもわかっていない。
ところで、私はまだ、あの問いに答えていない。
なぜこんな文章を書いてわざわざ公開しているのか?
私は前に、人間は「22世紀になっても変わらないであろう」と書いた。それは種としての人類がそうだというだけで、もちろん個人は変わることができる。
世界は変えられないとしても、人は変われる。
少なくともそう信じるふりができなければ、この連載を書くことは不可能だ。
そして、それが私のあの問いに対する答えでもある。
私はそれを信じるために、あるいは信じているふりをするために、日々少しずつこの連載を綴ってきたし、今も粘り強くこの文章を書いている。
それでもなお、自分の意見に同意する者には優しくするが、自分と意見が違う者には暴言を吐いても構わないと言い張るのならば、
「君らにかまう時間はないって」