メタバースの芽に関する雑記
導入
私は高専から大学に編入した一般理系大学生の岡澤 智だ。
高専時代に書いた記事を乗り越え再び筆を持つことにした。今回はバーチャル美少女ねむ著の『メタバース進化論 仮想現実に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』という書籍に関する感想や雑記をつづりたいと思う。
金欠のため書籍などは基本的にアフリエイトリンクを貼らせていただく。もし気になったら購入してほしい。
結論 メタバース本の中で最も興味深い
稚拙な文章をたらたらと書いても仕方がないので結論を先に述べる。私はこの本について尋ねられたら自信をもってオススメできるだろう。
前半はメタバースの定義や既存のプラットフォーム分析、それらを支える技術などが書かれている。このあたりの情報は他の書籍や記事などで触れられているものもあるだろうが、後半はこの本でしか得られない非常に興味深い内容だ。web3を謳うそこらへんの空虚な書籍とは一線を画しているため一読の価値は大いにある。帯にあるnote CXOの深津貴之さんの「メタバースを知りたいならメタバースで生活している人々の生の声を聞こう」という推薦コメントが最もそれを証明している。
これから気になった内容についてふれていこうと思う。
第4章 アイデンティティのコスプレ
著者はメタバースにおけるアイデンティティを「名前」「アバター」「声」の三軸で定義している。頭上に常時表示されている名前や、なりたい自分を実現するための見た目や声が重視されるのはその通りだと思う。これは見方を変えると現実世界における性質は自分の意志で決めることができない。よってそれらの制約をテクノロジーの力で克服しようという試みであると解釈できる。これまではそうした先天的な性質を受け入れるしか選択肢がなかったために、メタバースがそれらのオルタナティブとして機能するのは素晴らしいことだと思う。
またこの章で最もおもしろかったのは「分人主義」と「イデア論」の話だ。
平野啓一郎著の『私とは何か――「個人」から「分人」へ』の分人主義と、プラトンのイデア論を新たに導入することでメタバースにおけるアイデンティティを再解釈している。
端的に言えば魂の本質としてのイデアを各世界におけるスクリーンに投射して生成された写像こそが人格であると考えているのだ。現実世界ではありえない性質をフィルタとして通すことで新たな自分、または理想の自分を実現できるというように言い換えることもできる。
分人主義をイデア論で拡張する、この視点は目から鱗だった。
自身の人格が他者との文脈によって形成されていることは実感の伴う理解をしていたが、その文脈を新たにすべて生成してしまうという視点は持ち合わせていなかったわけだ。
第5章 コミュニケーションのコスプレ
本章ではメタバースにおける一般的なコミュニケーションと恋愛的なコミュニケーションの形態や特性についてふれられている。
メタバース上の恋愛
私が特に衝撃を受けたのはメタバース上の恋愛コミュニケーションだ。メタバース上で恋に落ちた人の割合が40%だったことや、お砂糖(物理的には男性でアバターは女性同士のカップルのこと)できた人の割合が30%を超えるという調査結果に驚きを隠せなかった。私は古い人間なので専ら女性が好みなのだが、原住民らは物理性別をあまり気にせず恋愛をすることができるらしいのだ。そういった文化があるのは知っていたが、その割合が直感から大きく外れていたことが非常に衝撃的だった。しかし思い返せばネット掲示板やネトゲがきっかけでカップルになった人たちも過去にもいたわけで、至って自然なことでもないのかもしれない。
メタバース上でのセックス
また性に関する内容も驚いた。人間は誰しも生物である以上、三大欲求から逃れることはできない。ではメタバース上でのセックスはあるのか?
結論としてはあるらしい。適正は求められるものの、ファントムセンスという疑似的な感覚を応用することで行為を行うことが可能なようだ。この話を聞いてはるか昔に見たとある映画を思い出した。
そう、デモリションマンである。極悪犯罪者を追い詰めた主人公の刑事であったが、人質が全員死亡してしまったため責任を問われて共々冷凍刑務所に送られえてしまった。そんな彼らが未来の世界で復活し、再び相まみえるというストーリーだ。なぜこのような古い映画を思い出したのか、それはバーチャルセックスに他ならない。未来の世界で主人公とヒロインは夜を共にすることになったのだが、新しいセックスの形態に慣れず激怒してしまうシーンがあるのだ。私も主人公側の人間なのかもなあと彼に共感した。
また記事を書く途中で攻殻機動隊の原作コミック第一巻のP53~54のシーンについても思い出した。(若干センシティブなので注意)
メタバースで広くアバターが用いられるように、現実でも義体が一般化したとしたら人類はどうなってしまうのだろうか。思いを馳せずにはいられない。
個人的な所感など
ここで私なりの所感をまとめる。定量的な分析などまるでないただの感想であり、内容が右往左往しているのを留意したうえで読んでいただきたい。
ここである一つの概念を導入したい。それは批評家 宇野常寛氏の解説するカリフォルニアン・イデオロギーだ。
要約をすると、
カリフォルニアン・イデオロギーとは、アメリカ西海岸で生まれたヒッピーカルチャーに基づいた思想であり、IT業界のパイオニアであるスティーブ・ジョブズが代表的な存在として知られている。この思想は政治革命は失敗してしまったが個人の自意識を変えることで世界を変えることを目指した。その中でサイバースペースが重要な役割を果たし、グローバルな資本主義経済と結びついたことで世界全体を変えた。結果的にGAFAが生まれたのは言うまでもない、というような内容だ。
その中心のひとつであるFacebook(現Meta)がメタバースを考案したわけだが、これは現代のインターネット社会の限界を象徴したような出来事のように思えてならない。00年代に夢見た明るい希望の世界とは打って変わり、現在の陰謀論や偏った政治思想が蔓延る修羅の世界になってしまった。カリフォルニアン・イデオロギーの延長として、再びユートピアを実現させようとした結果がFacebookの失敗である。これによりメタバースの世界は再び遠のいてしまったように思える。なぜ失敗したのか、その分析は専門家に任せるとして、実世界と強くつながっているFacebookのメタバースとねむ氏が提唱しているそれは大きく異なるのは言うまでもない。これは原住民たちの手によって独自に進化をしている最中であると言えるのではないだろうか。
生態系の芽生え?
最後に一冊だけ書籍を導入させていただきたい。情報環境学者 濱野智史著『アーキテクチャの生態系 ――情報環境はいかに設計されてきたか』という本である。
本書では00年代から10年代頃に発達したウェブサービスのmixi、2ちゃんねる、ニコニコ動画、ケータイ小説、初音ミクなどを生態系の構造として捉えなおすことで当時の日本社会を分析した。3年前の2020年に著者のインターネットに関する記事が公開された。
現状のインターネットはすでに成熟し衰退しかけている中、新しい生態系が発生する土壌が形成されてつつあるのではないかというように思える。その芽のうちのひとつがメタバースなのではないか。これは単なる希望論なのかもしれないが、私のゴーストがそうささやくのだ。
最後に
自分語りになるが数年前に「xR Tech Nagoya」という技術系コミュニティに所属していたことがある。そこで様々な情報を仕入れていたのだが、最近はあまり音沙汰がなく現状を知る手段がない。この本を読んで直接メタバース(特にVRChat)に飛び込んでみたいという気持ちがより強くなった。
今日は生成系AIの発展に注目が集中しているが、xR(AR,VR,MR)の影響はAIのそれに匹敵するのではないかと真面目に考えている。ガートナーのパイプ・サイクルでいうところの幻滅期に差し掛かった現状のメタバースはAppleのVision Proの発表により再び期待が高まっている。
この鬱屈とした湿っぽい現世界から新たな独自の世界へ進化していく…そんな予感を感じさせる素晴らしい本だった。
ここまで長々とした駄文を読んでいただいたあなたに最大限の感謝を申し上げる。
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