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境界線の二面性の狭間で葛藤する: ざわけんの自己紹介

 「境界線の二面性の狭間で葛藤する

 僕、大澤 健(ざわけん)という存在を煎じ詰めるなら、いまはこう表現できるように思います。

 こんにちは。はじめましての方もおられるのでしょうか。

今日は、この文字を介した一期一会に感謝しているこの他でもない僕という存在について、できる限り言葉にしてみたいと思います。

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1 境界・線引きを問い直す

境界・線引きを問い直していきたい
僕はそう思って生きています。

境界・線引きという言葉が頭から離れなくなったのは、新型コロナウイルスによって社会が大きく揺れ始めた頃のこと。
隔離、封鎖、ソーシャルディスタンス。
コロナの対策として行われたのは、どれも境界線を引くことでした。

躊躇いなく線引きがなされる光景を目の当たりにして、僕がおぼえたのは、強い違和感、そして怖さです。

「割り切れぬ思い」という表現があります。
簡単に分けられないものに線を引こうとすると釈然としなくて辛く苦しい感じがするように、線を引くことには何らかの痛みが伴うのが普通です。

ところが、どうも僕の生きるこの世界は線引きの痛みにあまり敏感でなくなっている。

 コロナに伴う給付金の論争も線引きの問題でした。
一律に給付すると必要のない人にも配ることになるので、給付の対象に線を引こうという考え。合理的な正論のようにも思えますが、この線引きによって、もし必要な人にお金が行き届かなかったらどうでしょう。

 零れ落としたり、切り捨てたりすることの痛みに鈍くなった世界。この世の中にはどうやら、できるだけ正確に線を引こうとする姿勢がしっかりと根を張っている。

 いま「境界・線引きを問い直す」ことが求められている。

コロナ禍で僕はそう確信しました。

 補足すると、境界線を問い直すには二つの意味合いがあります。
・世の中にある様々な境界線を見つめ直していく
・線を引くという営みや境界線それ自体の意味を改めて考えていく
です。

これらを突き詰めてることが、私たちには課せられている。

こうして始めたのが「越境ことはじめ」(以下、ことはじ)という場です。

2 境界線は両義的である

 ことはじでは、投げかけに呼応してくれた仲間とこの数ヶ月、境界線・線引きに対する考えを深めてきました。

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その中で僕が重視するようになったのが、境界線の二面性です。

 そもそもことはじを始めたのは、線引きへの違和感、つまりは負の感情がきっかけでした。しかし、このときにも僕は、線引きを否定するという単純な話でもないなと思っていました。

境界線に着目した世界の眺め方をしている言葉で、昨今最もポピュラーなものは「ボーダレス(borderless)」、境界線”border”に「〜ない」をあらわす接尾辞”less”のついた「境界のない」という意味のワードです。

 もちろん、ボーダレスを非難したい意図はなく(この語の背景や歴史についての知識は恥ずかしながら浅薄です)、これを掲げて活動されている方々には敬意をもっています。ただ線引きの問題に対するアプローチの仕方が、もし字面どおりのボーダレスに占有されつつあるとすれば、それはまずいんじゃないのというのが僕のスタンスです。

 およそ人間の知的作業はすべて境界線を引くことと関係していると言われるほど、境界線が私たちの種々の営みと切っても切れないものと思うと、「境界線をなくす」という方針がまず現実的でないという批判もできるでしょう。人種を統合する「人類」という概念が他の生物に対する排他性を持ちうるように、およそ「線をなくす」ことは「線を引き直す」ことのようにも思えます。

 「ボーダレス」という言葉の射程外に、境界線を問い直すべき理由はある。境界線を否定するのでなく、認めていく必要性もある。

「越境」という言葉選びの背景にはこのような考えがありました。

 これをいまは、境界線は両義的であると表現します。

英語の"boundary"(バウンダリー)には、境界・限界という意味に加え、フロンティア(最も先進的な活動領域)という意があります。
境界には何かを分かつ一方で、何かをつなぐものでもある。
壁(=凸的な境界)は、「障壁」として立ちはだかるだけでなく、「防壁」としての機能することもあります。

 境界線には、線引きの痛みと表現したようなネガティブな側面だけではなく、ポジティブな一面もあるのです。

3 境界線の二面性の狭間で葛藤する

 ただ間違いなくこの世界には、マイナスの働きをしている境界が溢れており、線引きによる多くの痛みが生まれ続けています。

 そんな世界に生まれ落ちた僕に課せられた使命。

それは、境界線の二面性を理解し、よりよい境界を求め続けることだと感じます。

境界の調整者(コーディネーター/世話人)、こんな風に表現してみてもいいかもしれません。

こんな役割を担った人間として生きる覚悟を、この文章を書きながらいま僕は固めようとしています。

 とはいえ、境界線をポジティブなものに更新していくのは容易なことではありません。僕自身が無意識に線を引いて誰かを苦しめ得ること、世界にネガティブな境界を立ち上がらせ得る。

 だからこそ、境界線をよりよいものにするための行動の前にまず、境界線の二面性の狭間で葛藤するというあり方を、僕があらゆる場面、すべての瞬間に体現していくことが大切なんだと思います。

4 境界線の世話人となるために

 境界線の二面性の狭間で葛藤しながらも、境界線を望ましい形に更新する挑戦を推進できる存在は、これから社会にますます必要とされると僕は確信しています。

 ここ数年、協働、連携、共創、共生といった言葉は以前に増して使われるようになっています。
これらも要は、既存の境界線を越えようという動き。
例えば集団や共同体レベルにおける境界線のマネジメントの必要性は、既に多くの人が感知するところなのです。

ここまでこの文章にお付き合いいただいているみなさんなら、様々な場面においても境界線が非常に重要であることを感じていただいているのではないでしょうか。

 そしてこれから僕は、境界線の二面性の間でもがきながらも、社会に不可欠な境界の世話人という役割を担っていくために、
境界線と、境界を更新していく方法の研究
境界線を調整する実践
の両輪を回し続けていきたいと思います。

5 現在の研究と実践

 回し続けたいと表現したように、修行は既に始まっています。

 まず研究。軸は無論ことはじです。
ですがもう一つ挙げることができるのが、大学での研究です。

僕は現在京都大学文学部の西洋哲学史(近世)の研究室に所属しており、「西洋思想の日本への流入」「明治翻訳」を主要なテーマにしていますが、これらは例えば「西洋の思想が海という境界を越えて日本に入ったこと」「明治期に言語間での越境や、日本語の境界の変化」と言い換えることのできるもので、僕にとっては境界線の研究以外の何物でもありません。

 そして実践。
これは、線引きを人間の基礎的な営みとして、境界線はユビキタスなものとして捉えれば、生きるということは境界線を調整することと言っても過言ではなく、日々の生活が実践だということもできます。

ただ、より具体的に取り組んでいるものを挙げるとすれば、SOCIAL WORKERS LAB (以下、SWLAB)という取り組みです。

一般社団法人 FACE to FUKUSHIの新規プロジェクトである SWLABを僕の言葉で紹介するなら、

専門的な対人援助職を指して医療・福祉の世界で使われる「ソーシャルワーカー(social worker)」という概念の境界線を揺らしながら、福祉にまつわる種々の境界線を問い直し、社会に新たな価値を生もうとしている実験場(lab)

です。

具体的な取り組みについてはここでは書きませんが、境界のコーディネートを仕事とすることに、SWLABでは挑戦させてもらっています。

 このような研究と実践の場で日々、境界線を問い直そうともがいてます。

6 いままでにやってきたこと

 ちなみに境界線を軸に据える以前は、主に地方(地元の滋賀)と教育をフィールドとして活動をしてきました。

地方領域では、滋賀県基本構想審議会(2017.08.〜2020.08.)で県民の将来ビジョンの策定に携わらせていただいたり、

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滋賀学生コミュニティ kaname」という学生団体の立ち上げて、3年連続で(2017〜2019)「近江の国ミライ会議」という合宿イベントを開催して、滋賀の学生同士や、学生と大人の仲媒をしたりしてきました。

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余談ですが、最近できた後輩が、2年目のミライ会議にお呼びしたアンドロイド研究の第一人者・石黒浩先生(実は滋賀出身!)の大ファンで、縁を引き継ぐことがでたのですが、こういうの境界人冥利だなと思います。

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教育領域では、Mono-Coto Innovationというデザイン思考を学ぶ中高生向けのプログラムで学生メンターをさせていただいたり、

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FEIS(未来の教育イノベータズ・スクール)という団体の運営をしたり、

まるっトーク という高大連携事業に携わったりしたりしてきました。

その他、関心を寄せて学んできたものにはファシリテーションや場づくりがあります。きっかけは、『問いのデザイン』という本を今年出された塩瀬隆之先生のゼミを一回生のときに受講したことで、上に挙げたような機会でも試行錯誤ながら、コツコツ学んできました。
下の写真は授業風景。僕に言わせればUSJの100倍は面白い授業でした。

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また心理にも関心が強く、『嫌われる勇気』の著者でプラトンとアドラーが専門の岸見一郎先生のもとに通って哲学と心理の狭間をたゆたってみたり、

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「自己肯定感」の提唱者として知られる臨床心理家・高垣忠一郎先生(立命館大学名誉教授)の家に仲間と押しかけてみたりもしてきました。

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あと、ライター経験も少しあります。

  過去編は大学時代にやったことの概略を記すに留めておきます。

7 ざわけんからお願い

 長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
ざわけんという人に興味を持っていただけたでしょうか。

「もっと知りたい」「話してみたい」と感じたり、「これってどういうこと?」と突っ込みたくなったりする文章になっていれば素直に嬉しいです。

note越しの新たな出会いや出会い直しに深く感謝しています。

 最後に、ざわけんから厚かましくも幾つかお願いを記させてください。

1 境界線や僕の話でピンときたら気軽にご連絡お願いします
情報共有やご意見なども大歓迎です。僕と喋ってみたいなと思ってくださった方がおられらば是非お話しましょう。「境界線と関係ないけど」とか「悩みきいてください」とかでも全然OKですよ!単純に話すのも聴くのも好きなので。

2 ご一緒できそうなことがあればお声掛けください
僕がご一緒することで価値が生まれそうな予感をおぼえてしまったという方。ご連絡ください。一生を賭けて境界に向き合うことだけは言い切れます。

このnoteのシェアなども、まだ見ぬの同志に繋がるかもしれない、力強い応援になります。

8 よしなしごと

 折角の機会なので追加で、ざわけんの解像度が百に一つあがるかもしれない情報を、そこはかとなく書きつけておきます。

 出かける前には気が重くなりやすい質なのですが、趣味はです。

越境の体験である旅は以前から惹きつけて離さない何かがあり、割と惜しみなくお金を投じてきました。

最も大掛かりな旅はアラスカ
オーロラという「幻想」が当然メインコンテンツなのですが、それを上回るパンチの強い要素が、「新婚旅行のお供」という稀有な経験であること...
新婚旅行についていったことのある人って、世の中に他にもおるんかな?(笑)

そういや野菜を洗うおばちゃんと喋りながら温泉に入ったこともあります。
メジャーな温泉はあまり知りませんが、変わった温泉は結構知ってます。

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 音楽は幅広く聴きます。邦楽はもちろん、洋楽もビートルズあたりから詳しいというほどではないですが聴きます。
あとKPOPも聴くんです。知ってる人には驚かれるんですけど。
23歳の誕生日に際して書いた文章は、韓国では国民の妹と呼ばれるほど誰もが知るIUの話に触れたのですが、思った以上にみんな知らなくてビックリしました。

 近頃まとまった時間をあまりとれず観る本数が激減していますが、「高校時代、何してた?」と訊かれたら「映画観てた」と即答するくらい、映画鑑賞も大好きです。
先日、休業してショックを受けていた地元の映画館の営業再開し、足を運んだことをツイートしたら、こんな反応をもらい、映画熱が再燃しております。大津の方はともに、映画愛溢れるシアターを生かす血流になりましょう。


際限がないので今日はこのあたりでおしまいにします。
抽象度が高い内容の具体化、断片的なエピソードの全容解明は今後のnoteでしていきますね。

〜連絡先〜
以下のいずれかにご連絡ください。
Twitter: @zawaken_
Facebook:大澤健
Mail: geassangel@gmail.com

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ざわけん/大澤健
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