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【断想】偏見がある、僕には。

先日、初めて韓国を訪れた。
日韓関係が戦後最悪とも言われるほど悪化している中、「韓国に行く」と言うと、「大丈夫なの?」といった言葉を投げられることもあった。

そういう言葉を非難しようとは思わない。
僕自身、どこでかはよくわからないが(大方メディアの影響だろう)、韓国への偏見を身につけてきてしまったと感じているからだ。
韓国の人から冷たい目を向けられるのではないか?そんなことはないと頭ではわかっていても、どこか不安な自分がいる。


安易に同列に考えよい事例ではないが、例えば、唯一の被爆国である日本は核兵器を使用したアメリカに対してマイナスのイメージを持っているが、一人のアメリカ人と出会ったときにその負の印象を個人にぶつけるかと言えばまずそうではない。
考えてみれば、自分たちと同じように韓国の人だって、様々な歴史はあれ、それを個人に対する憎しみに転化しているとは考え難い。

それなのに、そう心から思えない自分がいる。

「偏見」という病が、僕の心をかき乱す。


僕は偏見を持っている。

あえて僕はそう告白したい。
差別の根絶へと向かう大きな潮流の中で、「偏見」や「差別意識」は当然非難の対象だ。
偏見はあるまじきもの。「私は偏見を持っている」と告白することは、いわば自ら死地に身を晒すようなものだ。

もちろん「偏見など持っていない」「偏見などではない」と自分が正義だと信じて止まず、偏見を垂れ流している人は幾らでもいる。だが、「偏見は良くないもの」と思っている人は偏見を露呈しないよう努めるわけで、偏見の告白などするはずがない。
それどころか、「偏見はよくない」が「偏見を持っている自分などあってはならない」になり、偏見を持つ自分から目を背けていることも少なくない。

これは非常に危ういと思う。
今の社会には、自らの持つ偏見についての告白を許さない空気がある。
これだけ「言葉の切り取り」が横行していると、文脈が欠落したときに誤解を生むような言葉を吐くことには多大な勇気または労力する。

だが、何かを抑圧すると、それは思わぬところから思わぬ形で異なる症状として現れてくるものだ。
そして、それは大抵元のものより数段厄介になっている。


偏見を有することを誇れることとは無論思わない。
だが、より恥ずべきは「偏見を無くそう」という気概を持たないことではないか。
自らの偏見を恥じ、悩む人への寛大さが今の社会には欠けてはいまいか。


誰しも偏った世界に生きている。

偏見を持っているというのは本来それほど異常な事態ではないはずだ。


自らの持つ偏見・バイアス見つめ、それを議論する。

「偏見を持った自分」から始めることのできる冷静さ、寛容さが必要ではないか。

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ざわけん/大澤健
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