【断想】第三の目、カメラ:「世界」を〈世界〉化するカメラ
先日念願の一眼を手に入れた。
以来どこへ出かけるにも大抵カメラを携えている。
カメラを持つ持たぬ。
この違いは驚くほど大きい。
カメラは人間にとって《第三の目》とも呼ぶべき代物だ。
寺田寅彦のカメラ論
第三の目。残念ながら、これは完全にオリジナル表現ではない。
著名な物理学者であり随筆家の寺田寅彦(1878-1935)のエッセイの一節に基づく。
「写真機を持って歩くのは、生来持ち合わせている二つの目のほかに、もう一つ別な新しい目を持って歩くということになる。」
(寺田寅彦『カメラをさげて』)
寺田の洞察がいかに的を射たものか、身に染みて理解できる。
カメラを持つようになって世界の見え方が変わったことは、私にとって疑いようのない事実だ。
無論、彼の時代の写真機と今日のカメラとでは大きく話が異なる。
寺田の記している写真機の特徴を私なりの言葉でまとめれば、
1 世界の無彩色化:モノクロームである点
2 世界の平面化:二次元での表現という制約
3 世界の部分化:世界のほんの一部を切り取る点
の3つである。
2、3番目については今も変わらぬ写真の特徴と言えるが、今のカメラはカラフルな世界を我が物としており、1番目は当てはまらない。
むしろ、WBやフィルターなどによって色を好みに整えることができることを鑑みれば、「世界の好彩色化」という方が適当ではないだろうか。
寺田の特徴付けは、今日では不十分と言わざるを得ない。
新・カメラの三特性
そこで、この点を踏まえ、更に若干の工夫を施し、私なりに新たなカメラの三特性の提示を試みてみたい。
1 「世界」の好彩色化
2 「世界」の平面化
3 「世界」の部分化、そして部分の〈世界〉化
いかがだろう。
1点目は上述の通りであり、2点目は寺田に従っている。
物議を醸すとすれば、やはり3つ目か。
前半の「『世界』の部分化」は寺田も述べているところである。
ただ寺田は、「平面のある特別な長方形の部分だけを切り抜いて、残る全部の大千世界を惜しげもなくむざむざと捨ててしまう」と記しているように、注目しているのは空間的な意味での世界の部分化のみである。
しかし、「写真を撮る」という行為は同時に「瞬間的を切り取る」という時間的な意味での世界の部分化でもある。
まず時間性・空間性を背負った語であることを強調するため「世界」という鉤括弧をつけており、これと同じものを指し表すため1、2番目も鈎つきにしている。
この点についてはある程度の同意を得られるのではないか。
問題は後半だ。
「世界」から〈世界〉へ
「世界」から切り取られた部分、それは割れたガラスの破片のようなものではない。
それは時に普段見向きもされないものに焦点を輝かせ、時に言葉にならぬものを映し出し、時には永遠を閉じ込めさえする。
カメラで「世界」から切り取った断片は、独自の〈世界〉へと昇華される。
カメラを持つようになって、一個の「世界」は解体され、無数の〈世界〉の集合として立ち上がってきた。
1〜3の特徴を一つにまとめれば、
カメラとは「世界」を〈世界〉化するコンバーターである。
第三の目、開眼
もちろん私の特徴づけはカメラの一側面に過ぎないかもしれない。
絵画との別を一考すれば不足は自ずと見えてくるし、そもそもカメラの使い方は研究を始めとし現在では多岐にわたっており、それらを包含する特徴づけかはわからない。
また、上で〈世界〉と称したものはカメラでなければ見えないわけでもない。
だが、確かにカメラ抜きの二つの目では見えなかった〈世界〉を見ることを可能にする、その意味において、
《第三の目》
と呼ぶに値すると思う。
こんなところに道なんかあったかな。
彼女の髪はこんなにも艶があったのか。
この瞬間を彼ならなんと表現するだろう。
今日も私はファインダーを覗き、
未知の〈世界〉との邂逅に胸を踊らせる。