人は死んだらどうなるのか
人は死んだらどうなるのか?
古くて新しいこの問いは、洋の東西を問わず、多くの人々の関心を引きつけてやまない。
今月発売された『科学の謎99』(ナショナルジオグラフィック)にも、未だに科学がまったく太刀打ちできない領域として紹介されている。
しかし、医学的研究や臨床の経験知から、死の瞬間や直後に身体に何が起きるかについては医学でも少しずつ明らかになってきたようだ。
心臓が停止したとき「臨床的な死」が訪れる。その後、心臓が止まり血流が止まると、脳や細胞が酸素不足により機能を停止する「生物学的な死」を迎える。
現在の科学的知見によると、この「臨床的な死」と「生物学的な死」との間にはある種のタイムラグが存在し(この物理的時間については謎)、この「グレーゾーン」の間に意識は"冬眠状態"として保たれ、グレーゾーンの後に意識が消滅する可能性が高いという。
生物的な死に至る前に臨床的な死から復活し、その間のグレーゾーンを証言したものが、いわゆる「臨死体験」と考えられている。
その意味で臨死体験は、死後の世界ではなく、我々の肉体から意識が死にゆく(まさに"死"に"臨"む)プロセスを説明したものにすぎない。
肝心の、こと死後に関しては科学はお手上げ、完全な闇の中にある。
死の現象解明のためには、まず「意識」(心)の解明が必須なのであるが、これについても果てしなく未知なことが多く、現在では"物理学"の量子論によるアプローチが最も期待されているという次第である(といっても甚だ見当すらつかないが…)。
さて、学問によって死後が明らかになることの可能性が限りなく低い現代において、我々はどのように人生を生きるべきだろうか。
これは僕にとって、子どもの頃からの素朴で重要な問いかけであったし、学生時代、今、ひいてはこれからの生涯における最大のテーマになることは間違いないし、変わることもない。
人は生きている限り、「死後のことが分からない」という最も狡猾で、深淵で、それでいて潜在的な不安に"常に"苛まれているからだ。
他方、哲学分野では、20世紀で最も影響力のあったドイツの哲学者マルティン・ハイデガーが著書『存在と時間』の中で、死の問題について緻密な考察を行っている。
ハイデガーの思想は難解すぎて自分には到底理解しきれないのだが、少なくとも、かの天才ハイデガーが人生のあらゆる哲学的考察の末に行き着いた究極的テーマが「死の問題」であった。
「生」の解明には、逆説的ではあるが、「死」の解明が不可避なのだ。いや、もっと正確に言えば、表裏一体の関係にさえある。
人間存在の究明には、まず人間が未来に死にゆく存在であることを見据え、そこから現在へと立ち返り、自らの存在を改めて捉え直す必要があると。
そして、大著『存在と時間』には、死の問題とそこに至るまでの考察に多くの紙幅が割かれているのだが、非常に残念ながら結論部分は未完に終わっている。
そのことはつまり「最終章の担当執筆者は私たち一人ひとりである」というハイデガーからの情愛に満ちた切なるメッセージなのだと思うし、実際そのように受け取っておくべきだと思っている。