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[エッセイ]大学に入学する学生へ。その根拠はたしかか?
どんな行動や思考にも、それに至る根拠や瞬間が存在する。
それは直接的な要因であることもあれば、
全く関係がないように見えることでも
間接的に影響するということもある。
大学時代、読書が好きだという理由で文学部に所属していた私は
まわりの頭の良さに辟易しながらなんとか
過ごしていた。
ある日、私がいつものように拙い発表をしていると
教授から
「その根拠はたしかか?」
と指摘が入った。
私の発表内容はたしかに拙いが、
根拠が全くないわけではない。
ましてやネットのソースを引用もしていない。
たしかに書籍の根拠を引っ張ってきている。
なんなら2日ほど図書館に籠って文献漁りをしている。
そこらの学生よりもよっぽど自信のある根拠だ。
それの何がいけないというのだ。
「根拠はさきほど述べた文献にあるとおりです」
と説明すると
すかさず
「では、その文献は本当に正しいのか?その文献が間違っている可能性はないか?」
とのご意見。
なるほど。
そうきたか。
例えば、同じ事象について論じている文献が2つあるとして、
Aさんからの視点ではあるいは悪事と捉えられ、
Bさんからの視点ではあるいは善行として捉えられる可能性もある。
私は大学入学の序盤からこの思考を叩き込まれた。
当時は教授が毎回「それはたしかか!?」と
顔の比率から見ても大きな瞳を
更に大きく見開き指摘してくることにうんざりしていた。
しかし社会人になって、この発想はクリティカルシンキングと呼ばれるものであることを知り、仕事においても大いに役に立つこととなった。
しかし学生時代ではなかなかこの恩を感じることはできなかった。
大学の4年間 約1,500日にも迫る期間で学んだこの言葉を胸に
私は社会人になった。
しかし根拠がなくてもやらなければいけない時はあるということを痛感するのはもう少し先の話。