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「遊びをせんとや」~せっかく縁あって生まれてきたのだから~

「早く早く、遅れるから、早くしなさい」
と怒るおかあさんの姿にふと疑問を覚えた。
仕事をして給与をもらう身なら、
遅れないように急いで出勤しなければならないが、
月謝をはらって通っている子どもたちを
サラリーマンのように無遅刻無欠席のために急がせねばならないのか。

嫌がる子どもを泣かせてまで。
やっと生まれてきた子どもたちを、
なぜ大人のように急がせねばならないのか。

無心に遊ぶ子どもたちに何ひとつ優劣なんかないのに、
なぜ、何を競わせるのか。

この子たちも、私たちも必ず死んでいくのに、なぜ生まれてくるのか。

そんな時、梁塵秘抄の一節を目にした。
「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さえこそゆるがるれ」
 
雑木林の中で
朝から晩までひたすら遊ぶ子どもたちとゆっくり暮らしていると
雑木林の自然の営みの不思議さ、
目の前の子どもたちの生命のすごさに魂を揺さぶられた。

幼子たちは今だけをひたすら楽しむことができる。
幼子たちは遠回りの方が楽しいようだ。
幼子たちは感性だけで物事を見ている。
幼子たちは一人ひとりみんなちがう。
幼子たちはまさしくかけがえのないもの。
幼子たちは自然と同じで人間の思うようにはならないもの。
幼子たちはじっとしていないけど忙しくはない。


遊ぶ


 
子どもたちが安心して子どもでいられる場所や時間は十分にあるだろうか。
本来子どもたちは、「今」を楽しむことができる。
虫・木・草・土など物言わぬ自然の中で
ただ遊ぶ「才能」が子どもたちには備わっている。


草や花や虫に話しかけたり、
風が吹けば叫び、
日照りが続けばじっとして動かず、
雨がふれば飛び出して踊ることだって
不思議なことではない。


もぞもぞ・・・・


五感にまかせて、ひたすらに生きることを子どもたちは知っている。
先を心配して、今を生きている子どもたちを追い立てなくてもいい。
じっとしていなくて、
意味のない動きが多くて、
何を考えているかわからなくても心配ない。
ただ、忙しく遊んでいるだけ。


「のんびりゆっくりと言っている一平さんが世の中で一番忙しそう!」
と心配されるが、
自分が求めることに夢中になっている時は、
身体が疲れることはあっても、
悩むことすら楽しく感じて飛び回っている。

誰に強制されるわけでもなく、
自分が知りたいこと、
やりたいことを追いかけるのは、遊んでいるのと同じ感覚だ。

子どもたちが夢中で遊ぶ姿は、忙しそうに見えるけれどつらそうではない。


みんなで力をあわせて

今日はこの辺で。
お付き合いいただきありがとうございました。

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