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「学校に行けない」ではなく「学校に行かない」~目の前の「今」を楽しんで生きる~
最近、そんな「ひずみ」に異を唱える子どもたちが、
実に堂々としている姿を見かける。
まだ、歩かない子から大学生までの多年代が、
つかず離れずときおり話したり笑ったり
黙ったりしてそれぞれに過ごす。
おばあさんがうちわをあおぎながら、
遠巻きにそんな子どもたちをのんびりと見守る。
実に多様性に満ちたひとつの社会がそこにある。
今、知識はインターネットで検索すれば学ぶことができる。
でも、そこでは教えてくれないことの数々を小さな子は自分を見て、
それを習い、どんどん知恵をつけていく。
やっとハイハイを始めた子が、
見よう見まねで身体をねじらせ上手に階段をおりていく。
そうやって、生きていくために必要なことを習う時間が静かに流れる。
〇か×かではない。うまくいかなくてもよし。
本人が満足するまで続けることも、やめることも自由。
「だいたい・ほどほど・まあまあ・適当」
…言ってみれば△の空気が満ちている。
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その横で、先を心配して「きちんとできないの?」と
親たちが嘆くのを見て声をかける。
「大丈夫、大丈夫。子どもたちは今をしっかり生きている。
だから心配しなくていい。」
子どもたちは、
「できる、できない」のモノサシでしかはかれない社会ではなく、
「いろいろな生き方を示してくれる多種多様な社会」で
生きる知恵を習っている。
そこでは、なんだか心が動いて、感動して、ホッとして、
これでいいんだと思える。
「ただ生きていて」と願う母が、
ニカッと笑ってくれるだけでうれしかった。
それだけで安心した。
子どもたちに向かって
「なんでできないの!何してるの!だから言ったでしょ!」
と怒るのは親自身もつらそうだ。
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さらに、情報に振り回されて「病気」を生んでしまうこともある。
「言葉を話さないから病気?」と即、きめつめるのではなく、
「ちょっと遅いだけ」と少しだけ肩の力を抜いてみたらどうだろう。
ほんの一呼吸おいて、
目の前の子どもの「今」を抱きしめて、信じてまかせる。
見守る。周りを頼る。
自然はすべての生物をあえて多様にし、
とりえとりえを持たせていることに気づかない。
それほどまでに今の社会は狭くなってしまった。
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ものごとをはかるモノサシが少ない人ばかり、、、。
親も大人たちも窮屈な社会へのストレスや
これから先への心配で心がいっぱいになる前に、
誰かのせいにして他人を責め立てるような気持になってしまう前に、
自分自身の「今」を楽しんで生きてほしいと願う。
そうすれば、「ひずみ」から生まれた様々な問題
(地域・家庭の崩壊、生きがい感・居場所の喪失、精神障がい、
いじめ、引きこもり、不登校、DV、自殺、親殺し、子殺し、
虐待、無縁死、孤立死・・・)にも
何かしら解決の道が見えてくるかもしれない。
根本的に社会・教育・職場・家庭のあり方を
考えなおす時期が到来した。
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今日はこの辺で。
お付き合いいただきありがとうございました。