人力から動力へ ~「豊かさ」とはなんだろう~
人力から動力が導入されたことで暮らしの中の時間は大きく変化した。
着るもの、食べるものも、家も道も自分で作っていた時代。
雨が降れば縄をない、機織りをして過ごす。
とにかく暮らしのことだけで精一杯で、暇がなかった。
動力が導入された暮らしはまるで夢のよう。
手洗いでしていた洗濯は、洗濯機が洗い、今では乾燥までしてくれる。
便利で楽ちん。
車も新幹線も電話もしかり。
会いたい人に会い、行きたい場所へ行き、話したいときに話せる。
なんでもあっという間に叶う。
「機械化=便利=豊かな暮らし」は憧れとなり、
そんな暮らしをするための人生設計が生み出された。
成績優秀で稼ぎの良い暮らしをするために、競争する。
24時間働くビジネスマンになれないと、
人として落ちこぼれたと揶揄されることもあったほどだ。
みんなとにかく頑張って「機械化=便利=豊かな暮らし」を手に入れた。
暮らしの中もいわゆる「外注化」が進み、
余った時間は旅行や習い事など過ごし方は選べるが、
やたらにお金がかかる。
だから、またシャニムニ働く。
さらに、情報化社会の到来が
少しの暇も与えないほどの情報量を与えてくれるようになった。
わからないことは、ネットで検索がもはや常識。
目の前で話す人の言葉より、
世界のどこかで語る人の言葉に心奪われる。
いかにも便利で豊かなのだが、ものごとにはその反面がつきまとう。
判断基準が多岐にわたり、
調べに調べた情報にうもれ、
結局どうしてよいかわからなくなる。
ポツンとひとりでテレビをみながらコンビニ弁当を食べる。
子どもたちは疲れた親の笑顔に遠慮して、言葉がどんどん少なくなる。
社会の最小単位の「家族」は一人ひとりの事情で忙しくなり、
会話がなくなり、
だんだんと心が動かなくなる。
そして、暮らしの中に「物語」がなくなっていく。
便利で楽ちんの先には、豊かな暮らしがあったはずなのに、
何かに追い立てられるような息苦しさに苦しんでいる。
「豊かさ」とは一体なんなのか。
安心できるはずの居場所がなく、頑張れない人はどうしたらいいのか。
自然の中で遊んでいる子どもの手を引き、
「今日はもう帰るよ!〇〇教室の日だよ!遅れるから急いで!」
と走り出すお母さん。
泣きべそかいて引かれた手にしがみつくように走る子ども。
頑張っている姿を見ながら、一体どこへ向かって走っているのかと考える。
動力を得て、私たちが暇を手に入れたのはここ40~50年。
せっかく手に入れた暇にまだ慣れていないので、
どう使っていいのかがわからない。
四国遍路をめぐっている時も、
車でさっさと88か所をめぐってしまう人たちと
自分の足で歩き、
風景や状況をいかにも楽しそうに満喫している西欧の人たちに出会った。
さっさとめぐる人たちは、
暇を持てあまして困るのに暇を手に入れるために車で移動する。
かたや西欧の人たちは自分の足で歩き、
ゆっくりと楽しむ暮らしを手に入れている。
私たちが暇に慣れるのはまだまだこれから2~3代かかるだろう。
今は悩むが良い。
今日はこの辺で。
お付き合いいただきありがとうございました。