好きなことの解像度を上げてみる
消費されるためのモノ・体験をしていて楽しいのは当たり前、
ということにはたと納得した。
前回のnoteでも書いた通り、私は基本的にエンタメが好きだ。
ただ、それの大半は「消費すること」が好きであって、
産み出すことが好きかどうかは別問題なのだ。
残酷なことに
消費することと産み出すこと、そのどちらもが好きなとき、
見る目は肥えているのに自分の技術はそのお眼鏡に敵わない、
ということも多々ある。
そして、他人からの評価も得られないことも。
そんなとき
「どこに楽しみを見出しているのか」
を言語化することで
消費する楽しさと産み出す楽しさのそれぞれを
適切に楽しめるようになるのではないだろうか。
言語化ことで好きなものの正体を明らかにする
産み出す楽しみの中で
どこに最もアドレナリンの分泌を感じるのかをわかっていれば
不要な嫉妬や不毛なパイの奪い合いをせずにすむのではないだろうか。
例えば、イラストをアップしたとして
自分がイラストを描くことで1番楽しんでいるポイントが
「好きなキャラに好きなポーズを取らせることが出来る」
という部分だった時
SNSにアップした後の反応は副産物なのだ。
そこをキチンと認識せずにいると、
いつの間にか
- 他人からの評価がないと価値がない
- 自分以外の誰かの評価が気になって仕方ない
- あの人は評価されるのに自分が評価されないなんて納得いかないと嫉妬する
というような罠に陥りがちなのではないかと思う。
それに「褒められたい」「認められたい」が目的なら、
違う手段でもいい訳だ。
自分ではことさら自慢するようなことでない
と思っていることであったとしても、
それを評価してくれる人がいるのなら
それを表に出せば、褒められたり認められたりしやすい。
「産み出すのが楽しいこと」で褒められたい・認められたい」
という欲求は
「産み出すのが楽しいこと」が「他人に評価されるレベルに達している」
という2点が一致していないと満たされないので難しいのだ。
評価されるかどうかは他人軸の話なので
自分でコントロールすることはできない。
「産み出す楽しみ」と「評価される喜び」は
全然違う次元の話なのに
評価が可視化されるようになったことで
一緒くたになってしまいやすくなってしまった。
だから今こそこの2つを明確に区別する力が必要なのではないだろうか。
肥えた自分の目との対決
消費する自分と産み出す自分にレベル差があるとき
そこをどうやって埋めれば良いのか、
実は自分でもまだ明確な答えを見つけられていない。
けれどこの2つを上手に同居させている人を観察していると
やはり「産み出す楽しみを満たせたかどうか」が
自己評価の基準になっている気がする。
イラストならより自分の描きたかったところ、
フェチの部分を納得いくまで描き上げて
「ここが素晴らしい!!」と自己満足出来ている人は
本当に楽しそうである。
肥えた目と釣り合うレベルになるまで
ある程度の努力は必要だと思う。
けれどもともと産み出す楽しみがあるのだから
その努力も苦痛である中でも楽しい部分があるのではないか。
努力できるのも才能というが、
その努力を努力だと感じないほど
楽しみの方に注視できている状態に至れるように
言葉にするのだ。
自分の好きなことを楽しむために
自分が産み出すのが楽しいことをずっと好きでいるためには、
どんな部分を自分が楽しんでいるのかを言語化して、
それが満たされる方法を考えるのが早道だと私は思う。
評価されることと自分が満足されることが一致すれば幸せだけれど
そこに至るまでにはある程度の積み重ねが必要になる。
その途上が楽しいのなら、これ以上幸せなことはないのかもしれない。
筆者の余談
私は最近この理論で「歌うのが好き」ということを分解して言語化した結果
「前の自分よりも上手に歌えるようになったことがわかるとより楽しい」ということがわかった。
人に聴かせることが好きなのではないし
前より上手に歌えているかどうかを判定してもらいたいので
スマホアプリのサービスで
採点機能とメロディーラインが表示されるものを使って
最近知ったお気に入りの曲をひたすらスマホに向かって歌っている。
本当は歌ったものをUPして
他の人に聴いてもらって楽しむサービスのようだけれど
そこは無視して出てくる採点結果を見て満足している。
(たまに上手に歌えた時はUPするけど)
なんだかそんな孤独な遊びなのだけれど
ちょっと人生が楽しくなった気がする。
今回はZenBrush3で書いてみました。
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