散歩と雑学と読書ノート
今回の千歳川の写真は、ゴールデンウイークの最中に撮ったものだ。左手にコブシの花、右手に桜の花が咲いていたのだが残念ながらあまりきれいに撮れなかった。noteに記事を載せていただいてから、私は写真撮影の腕を磨かなければと思うようになった。またイラストを描けたらいいのにとも思うようになった。予想外のことである。この年齢でどうなるかわからないが、目標ができることはありがたいことである。
これまで3篇の記事を投稿させていただいた。どれもエッセイと論文の間のような長文で読みずらいものになってしまったのに10人以上の方にスキのマークを押していただきとても感謝している。ありがとうございます。
散歩をしながら考え事をしたり、季節の変化に合わせて次第にかわっていく景色を楽しんだりしている毎日だが、できたら旅行をしたいと思っていたところ、二人の娘たち夫婦が計画を立ててくれた。
長野県松本市の浅野温泉に集まって退職祝いをしてくれるというのである。自遊人の松本十帖がプロジェクトして、浅野温泉にあった老舗温泉「小柳」を「ホテル小柳」と「松本本箱」の二つのホテルに再生したのだそうだが、昨年生まれた孫が二人いるので、子供を受け入れてくれる「ホテル小柳」に宿泊することとして家族全員が集合し楽しいひと時を過ごすことが出来た。「松本本箱」のブックストアは面白い試みだと思った。また温泉街から見えた北アルプスは美しかった。機会があったらもう少し近くからながめてみたいものだと思った。
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「読書ノート」
★「山・原野・牧場ーある牧場の生活ー」、坂本直之、2021,山と渓谷社
札幌駅にある書店で本書を見つけて二冊買い求めた。一冊は坂本直行のファンである下の娘に送った。
本書の著者紹介によると、坂本直之は1906(明治39)年釧路に生まれる。北海道帝国大学農学実科に進み、在学中は山岳部員として活躍。卒業後一時東京で園芸に従事。1929(昭和4)年、北海道に戻り十勝平野の広尾で開拓に従事。日高山脈への登山活動を行うと同時に北海道の山野を主題にした絵筆を取り続け、雑誌「山」などに作品を掲載する。1960(昭和35)年山岳画家として認められ農業から離れる。ネパールにもスケッチ旅行をして作品を残す。1982(昭和57)年逝去。
本書はこの文庫版で4回目の発行となる、坂本若き日の画文集である。。初版は1937(昭和12)年、「山・原野・牧場」として武村書房から発行された。この文庫版の本文は二回目の朋文堂版(1959)を底本としている、また口絵や本文挿画の収録はこれまで以上に追加されている。それらの絵画は日高山脈を望む南十勝の広尾で開拓農民として厳しい牧場の労働に従事しながら四季折々に描いたもので、純朴で力強い味わいの名文と合わせて坂本ファンにとっては何とも贅沢な一書である。
表紙の絵は坂本が愛した日高の山々を遠景に、その下に柏の林が描かれている。柏の木は坂本がよく描いたものである。林より手前には雪原が広がり中央に一本の道が通っていて馬ソリが描かれている。馬ソリはおそらく牧場でとれた牛乳の出荷途中で広尾の市街に向かっているのだろう。一番手前に木の切り株が雪をかぶって描かれていて、開拓の雰囲気を漂わせている。切り株も柏だろうか。本文の中で坂本は、このあたりの平原は、もとはうっそうたる柏の純林だったが、鉄道の枕木をとるために、ほとんど乱伐してしまった。計画なしの乱伐は、後世の百姓に恐ろしい風害というものを置き土産にした。と述べている。柏の木は腐らないので有名で家の建材としても使用されたようだ。
本書には「山・原野・牧場」と「飯場の話」の二編のエッセイが収められている。「飯場の話」は、造材の飯場に冬山の登山の途中に泊めてもらい、その際に体験した造材の現場で木を切り出す山子(やまご)やそれを運搬する藪出(やぶだし)たちとの触れ合にまつわる短い話である。それから30年近く後のことだが、私は学生時代の夏に造材飯場に寝泊まりしてアルバイトをした体験がある。もちろん坂本の体験した飯場と同じではないが、一方でそんなに大きな違いもないと感じた。私のささやかな飯場生活の体験は後ほどエッセイ(こころの風景ー父と母と故郷ー)の中でふれている。
「山・原野・牧場」の雰囲気を伝えるためにここでは坂本が取り上げている動植物の名前を中心に本文からいくつかのことがらを短く抜粋してみることを試みた。()内の文は私が追加。
坂本は、日高山脈の山々や原野に生息する動植物が四季折々に変貌する様を生き生きと美しく表現している。さらに手に入れた動植物を食する喜びを率直に記しながら、過酷な開拓者としての生活を鮮やかに描きだしている。
牧場の冬
雪原に無数につけられた野兎の足跡、樹氷を散らして飛びまわる小鳥の
群達、という風景は、朝の寒さを忘れさせた
牧場の動物のメンバーは馬が9頭、牛が20頭、豚が5頭、その他ニワトリ、
ガチョウ、アヒル、伝書鳩、蜜蜂、チンチラ兎
そして愛犬のジャック
秋から冬にかけて牧場の川に鴨がおりる。魚を食べる鴨の味はあまりおいしくない
寒気が少しゆるんで春めいてくると、紺碧の空をバックに、白鳥の大群の飛翔を見る
記憶によると三月二十三日だったと思うが、鶴が飛んできた。鶴の吸い物が食えるぞ(と鉄砲を持ち出して)ソロリソロリと接近したが弾の有効距離にならないうちにフワフワ飛び立った(鶴を食べるという発想に驚かされる)
春の歌
北国の春は、まったくみるみるうちにやってくる。冬は潮がひいていくように、山へ山へ、と退いていく
(春になると)毎日野火、野火で明け暮れ(牧場が甚大な被害を被ることもある)……ホコリと灰の舞い揚がる原野に雨が降って、しっとりと土が濡れると、……若葉の芽ばえが、無類の新鮮さで動きはじめる。地下にひそんでいた溌溂とした生命の躍動に、僕は無限の美しさと若さとを感じる。
昔から焼跡のワラビというが、これはこの気持ちの最たる姿であろう。
春早くには、(山の南面では)スミレやキジムシロ,フデリンドウが咲く
(北面では)ニリンソウ、カタクリ、キバナノアマナ、エゾノエンゴサク、オオバナエンレイソウ、オオサクラソウの類が美しい花を見せるが、もっと早くには、フキの薹と福寿草が咲く
森林の下草が咲きそろう頃、コブシが咲く。……純白の花をつけたさまは、山桜にまして美しい(私はまったく同感である)
春はまた僕たちの食卓に新鮮味を添えてくれる。フキの薹、ヤチブキ、タンポポ、、フクベラ、フキ、ワラビ、コゴミ、イラクサ、ナナツバ、アザミ、タランボなど
巣箱の中でうずくまって越冬した蜜蜂の群れが、野に出て花を求め、彼らの生活の営みを開始する
カラスは悪臭がある(しかし)……カレーライスにしてもっぱら珍重した。牧場ではカラスライスと称して、最上級の御馳走であった
僕らはタカも食べた
原野が青んでくると、小鳥たちは盛んに巣を営みはじめる。雲雀,アオジ、ホホジロは地面の草間に、キツツキは枯れ木の幹に、鴨やタシギは流れのほとりに、カラスは梢高く
夏の歌
六月下旬から七月にかけて、原野には鈴蘭がびっしりと咲きつめる。……
原野の開拓者にとっては有り難くない雑草である。丈夫だからいくらチョン切っても死なない
南日高の残雪も、細々とその谿間を飾っているが、やがては緑のなかに塗りこめられてしまう。この頃になると僕達は除草に多忙である
初夏の原野には、アヤメ、フウロウ、カンゾウ、シャクヤク、エゾスカシユリ、タカネバラなどが咲いて美しい
放牧場にはたいてい熊が出る
しばらくすると誰かの馬が熊に食われる。……熊は生まれながらにして、馬の弱点を心得ている。……馬とりに巧者な熊は、たいてい利巧でアマッポ
(仕掛鉄砲)にはかからない
何百頭という馬が一夏放牧されると、一本の草もなくなるといっても、これはホラではない。……馬は満腹を知らぬ動物である
七月の下旬の暑い盛りに、ちょうど牧草の収穫がある。……いったい牧草につけられた名称は、実にロマンチックで美しい響きを持ったものが多い……
トールメドウフェスキュウ、ケンタッキーブリュウグラッス、オーチャード、といった具合だ
七月末には、毎年盛んな馬市が三里離れたT市街で開かれる
夜には、水辺に、原野に、蛍がちらほら飛び交うようになった
秋の歌
北国では、お盆が過ぎるともう秋である。原野には萩、女郎花、ツリガネニンジンなどの秋草が咲きはじめる。白いススキの穂も出はじめる
八月の末頃だったと思うが、僕達は裏の山の蔭を流れるモンベツ川へ、ヤマベ獲りにいった。釣るのではない、網で掬うのである。……僕達はそれから二日ばかり、ヤマベの天ぷらばかり食べた
ヤマベはマスの子であるが稚魚ではない。……マスの稚魚は群れをなしてしばらく川で遊んでいるが、少したつと海へ下ってしまうが、その時、雄だけが川にとどまってヤマベになるようだ(もちろん少ないが海に下る雄もいるようだ)
六月に入ると付近の川にはマスが上り始める。……(そして)故郷についた頃にはちょうど紅葉の秋になる。……アキアジはマスの産卵が終わる頃から、のぼりはじめる呑気ものである
冬の序曲
初雪ー
大雪山、十勝岳の中央高地の初雪は早いが、日高連山の初雪はそれに較べると遅いのである
初雪は冬山の思い出を新たにする。初雪の感激は深い
一朝ごとに平原は色づいていく、一番紅葉が早いのはイタドリである
野に放たれた馬どもは、草を食いつくして丸々と肥える……人間はワラビをよろこんで食うが、馬は(ワラビが)若いときでも、枯れたときにでも決して食わない……昔、放牧の今より盛んなときには、よく馬を山から追い下げてくると、馬の中に鹿が混っていたそうである。これは本当の馬鹿を見た話である
秋になると、山の主のオヤジども(ヒグマ)は、畑の作物を戴きに里へ下がってくる
秋は刈物に多忙である。そのうちでも豆類だけは全く苦手である。腰を曲げての仕事だからだ
渋いカシワの紅葉は、モミジのような華やかさはないが、それはこの十勝の単純な素朴な風景に、いとも似つかわしい色調である
初冬の兎は、畑の穀物を食っているから、肉もいいし味もよい
暮れも迫って豚も肥えたーどうだこの尻の肉は、うまそうではないかー
暮れも押し迫る頃、根雪がきた
……そっとカーテンを引いて窓外を見る。ランプの赤い光が、ボーッと白い世界を照らす。……樹林も何も見えない。ただ深々と音もなく降る雪だけが万象の支配者である
僕はこういう夜は、本をふせ、あるいは絵を描く手を休めて、時々窓外の雪を眺めながら夜おそくまでランプの芯を燃やし続ける。冬山への郷愁が、僕の心をかきたてる。雪の夜の静寂は、僕の心の静寂を破る
僕はたいての正月は、山へ登りにいってテントのなかで迎える。これは僕にとって一番の正月である
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「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より
今回と次回は風景に関連したエッセイを掲載させていただこうと思っている。今回は、私が生まれた集落の風景にまつわる思い出を書いた「こころの風景ー父と母と故郷ー」と、診察室の窓から見える風景に関するエッセイ「診察室の窓」の二編を載せていただき、次回は「風景をめぐる読書ノート」を載せていただこうと思う。
こころの風景―父と母と故郷ー
私は北海道の盤尻という山村で生まれた。生まれた場所は、村の中心から
100メートル近くも小高い丘陵に開けた小さな集落で、そこには100件ほどの家があったろうか。多くの人々は林業で生計を立てていた、炭焼き小屋の風景がうっすらと思い出される。現在、そこにはもう人は住んでいない。ヒグマやアライグマが徘徊しているのではあるまいか。恵庭岳のふもとに位置していたその山村に、私は5歳くらいまで住んでいた。集落の中心を一本の道が通っていて片側はすくなくとも、わたしの記憶の中では、数キロメートルもいくと森のなかで行き止まりになっていた。小さいわたしにとってそこがとりあえず世界の終点であった。反対側はしばらく長くなだらかに坂が続いた後、とつぜん急な坂道となりそこをくだると川添に恵庭の市街へと続いていた。
自分の相当おぼろになった記憶の森に分け入ってその場所を思いだしてみると、脈絡なく浮かんでくる風景の断片と人々とのかすかな思い出がとても懐かしくよみがえってくる。
たとえば、乾燥したトウキビとホウズキがぶら下がっている縁側に猫と一緒にうたた寝をしている老婆の姿が一枚の絵画のようによみがえる。しかし、その絵画はそれ以上の思い出の物語を紡いではくれない。それは、私の最も古い記憶に属していて、おそらく3歳以前の物語を作成する能力がまだ出来上がっていない頃の記憶に違いない。別な記憶では、大きな鍋で豚のえさを煮込むすえた臭いと、その大鍋のまえでがなりたてている近所のおばさんの姿がよみがえる。その額から滴り落ちる汗と、煮しめたような色のシャツからいまにもこぼれおちそうなおっぱいが浮かんでくる。そうおばさんのおっぱいなのだ。しかし、そこにはエロスの香りはない、おばさんの持つ強さやたくましさ、そしてほんのすこしの怖さとおぞましさがよぎる。学生時代に、スタインバックの「怒りの葡萄」を読んでいたときに、そのなかに出てくるジョージ一家のたくましい母親がこの当時のおばさんとなぜか私にはだぶって感じられた。
味や匂いは、記憶を呼び起こす最も強力な武器だ。プルーストの有名な紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの香りと味のように文学的な香りはまったく漂わないが、私が当時のことを思い出す臭いというと、情けないことに人糞の臭いだ。その人糞のおかげで、野菜が勢い良く育ち、我々子供たちは全員、回虫と共生することとなった。
私は昭和17年の生まれなので、太平洋戦争をこの場所でひっそりとやり過ごしていたこととなる。もちろん戦争の直接の記憶はまったくない。大人たちの話ではこの村の上空にもB29が飛んできたのだという。B29といえば、最近(平成23年)のことだが、ある女性からこんな話を聞いた。彼女は、終戦まもなくの頃まで富良野に住んでいた。戦時中のある日、B29が、自分のいるほうへ急降下してきた。恐ろしくてふるえながら、もうだめかと思って降りてくるほうを見ると、若い米兵が戦闘帽をかぶってにやにや笑いながら、自分たちとすれすれに飛んで行った、生きた気がしなかったという、それが
66年も過ぎた今でも、よくよみがえってくるし、夢に何度も鮮明に出てくるというのである。
わたしには、戦争に関しての直接の思い出はないのだが、戦後の混乱の時期の思い出はすこしある。戦争の落し子である防空壕は戦後もずいぶん長い間、全国に残っていたと思うが、この山村にももちろん残っていてわれわれ子供たちの格好の遊び場であった。そういえば長い間、我が家の味噌汁を作る鍋は鉄兜を鋳造しなおしたものであった。戦後おそらく都会では食糧難の時期があったのだろうが、私は幸いなことに、ひもじい思いをした記憶はない。畑で食べたアジうりが旨かったことを今でも思い出す。代用品のイモやカボチャやすいとんなどは、どちらかというと、もう食べたくないという人が多いと思うが、いまでも、それらはわたしの好物である。当時、電気は通っていなくてランプのホヤ磨きはわたしの仕事だった。ところが奇妙なことに、わたしの記憶の中ではランプと同時に節電のために一時的に薄暗くなる裸電球が浮かんでくる。さらに、ラジオから聞こえる子守歌がわりの浪花節が懐かしい。平沢寅蔵の次郎長伝が最高だった。わたしの勘違いでなく同じ家での風景であるならば、途中から電気が通るようになったのだろう。
それにしても記憶とはあいまいなものだ。私には不思議な気がするのだが、この集落の冬景色が浮かんでこない、浮かぶのは、もっぱら春の景色なのだ。タンポポやレンゲが一面に咲いている野原や吹きぬける風、飛び交うチョウチョなどである。その中を、小川が流れていてほしいと思うのだが、思い出せない、そもそもこの集落に川があったのだろうか、ないはずはないとも思うが、少なくとも大きな川は流れていなかった。さらに思い出すのは、野イチゴの甘ずっぱい味だ。また、山桜が咲き誇る少し前に、真っ白な花びらを咲かせるコブシがきれいだった、その花に近づくと思いがけなくきつい臭いと大柄な花びらなので驚いたことを思い出す。私は、桜よりもほんの少し早く北海道の春を察知する、このコブシの花が今でも好きである。
私の家はすこし小高い場所にあった。父は営林署の支所の責任者で、造材と造林の仕事をしていた。家の前には切り出した丸太がつまれていて、定期的に町の木工所に運ばれていた。我が家にはいつも、数名の若者が寝泊りをしていて、丸太の運搬などにあたっていた。
その中の一人の若者に私は気に入られていて、よく丸太を積んだトラックの助手席に乗せてもらった。わが家から一本道の急な坂道を降りたところで川が視界に飛び込んでくるのだが、それは漁川と呼ばれていて、川底は美しい火成岩の岩盤で覆われていた。たぶん、そのために、われわれの山村が盤尻と命名されたのだろう。漁川の下流は石狩川に合流している。当時、二つの水力発電所が急な坂道の近くで稼働していた。その二か所の中間くらいのところに、吊り橋がかかっていた。私はその橋を、長く白い髭を蓄えた老人がヤギを連れて渡る姿をよく目撃した。運転中の若者がそのたびに仙人が橋を渡っていると私を脅すように言うのである。一度私は吊り橋の上に立ったが、橋は信じられないほどゆらゆらと揺れ、その先は不思議な予感をただよわせて薄暗い森の中へと消えていた。きっと、見たことのない「仙人の里」へとつながっているに違いないと私は直感した。ふと下を見ると、川の流れは渦巻きながら急で、青黒く見えない川底まで、どのくらいの深さか想像もできない。ゆれる吊り橋上で、私は数歩も歩けず引き返してしまった。しかし、当時の私に仙人についての知識があったとは思えない、もう少し大きくなってから、作られた記憶が混入しているのかもしれない。それでも、仙人という言葉がしっかりとつり橋と共に私の記憶に刻まれている。そして、仙人に関する関心は今も続いている、最もその知識はいまだに怪しげで、私は不老長寿には関心はない。悠々とこだわりなく生きている老人はみな仙人に思えてくるから困ったものだ。私の認識の中では、認知症の老人のなかにももちろん仙人は沢山いる。
ところで、当時は丸太を運搬するために、トラックのほかに、森林鉄道(正確には森林軌道とよばれ1957年に廃止)が走っていた。随分と高い崖のうえを走る鉄道の映像がうっすらと脳裏をかすめる。丸太を積み込んだトロッコを引っ張るのは、機関車という代物ではなく、むき出しのエンジンの本体だけであった。だから、われわれは、鉄道そのものを、エンジンと呼んでいた。トロッコに積み込まれた丸太に乗って振り落とされ、老人だけでなく知り合いの若者も亡くなった。
平成28年3月25日の北海道新聞の記事によると、盤尻は1871年(明治4年)ころより開拓が始まった。恵庭の初めての基幹産業である林業の発祥地であり、木材の伐採や輸送の職を求める人が次々と移住してきていた。明治の末期には浄土真宗の僧侶、林空真がやってきて布教にあたり、また彼は住民の要望で初めての教育施設である寺子屋を開設した。しかし戦後次第に北海道の林業は輸入材に押されて衰退するにつれて人口が減退し、平成28年には19人になってしまったという。なお盤尻には鉱山(恵庭鉱山)もあって、1943年に閉山となったが、要塞のようないでたちであった製錬所の跡が現在も残っているとのことである。
わたしの父は、平成21年に96歳で亡くなったが80歳過ぎまで、盤尻を中心に、山の中を歩き回っていた。わたしが小学生のころ、父は営林署を退職し、恵庭のある木材会社に就職した。1954年(昭和29年)北海道を襲った15号台風(洞爺丸台風)はおびただしい風倒木を残したが、その処理で父のいる木材会社も一時羽振りがよかった。しかし、放漫な経営のせいだろうか、まもなく倒産した。父はその後、小さな自営の造材業を興し、途中で何度か倒産しながらも80歳過ぎまで仕事を続けていた。
わたしは、大学生の夏休みにはよく父のところでアルバイトをした。アルバイトの場所は、夕張や日高のこともあったが、多くは盤尻の山の中だった。あるとき、私の生まれた集落よりもさらに奥の山中で、1週間ほど、飯場に泊まり込んで造林の仕事を手伝ったことがある。飯場は人間の住居として必要な最低限度の形態が裸のまま見えてしまう建物で私はとても気に入っていた。その建物の外にある風呂は、ゴエモン風呂だった。ドラム缶の湯船に浸かりながら星を眺めるのは最高の贅沢だ、雨の中での入浴も悪いものではない。必要な水は飯場のすぐそばを流れる沢水を利用していたが、沢には時に、イワナが群れをなして、手を出せば捕まえられそうなところで泳いでいた。北海道の川の上流は、水温が低く、光も当たりづらい為にイワナが住みつき、中流は水温が少し高くなり、光も当たりやすく流れも速くなって、ヤマベが棲み分けている。と「棲み分け理論」で有名な霊長類学者の今西錦司は述べている。
飯場には10人ほどが寝泊まりをしていた。その中で記憶に残っている二人の人物がいる。一人は朝食になると必ずご飯に焼酎をかけて食べるつわもので、今から考えるとそれだけでアルコール依存症だと見当がつく。もう一人は短い付き合いではあるが、とても印象的なアイヌの若者である。彼は私と同じくらいの年齢で、彼は私のことを若親分と呼んだ。彼は親切で優しい好人物だった。彼は私を馬に乗せてくれた。私にとっては初めての経験で、思いがけず高い位置から見える風景が今までとはまったく別様に見えることにいささか驚いた。また、彼は七半のバイクに私を乗せて後ろから支えて突っ走ってくれた。そういう体験を与えてくれたからというだけではなく、彼は少し話をしただけですぐ、好人物だとわかる好人物だった。
当時も今も私はアイヌ民族に関して十分な知識をもってはいないが、私は彼らの自然と共生する生きざまに深い敬意を持っている。しかし、彼ら民族の不幸を我々の民族が招いたことを思うと、自分の思いを彼に伝える言葉が私には見つからなかった。「アイヌ神謡集」を出して、アイヌ民族の叙情詩(ユーカラ)を残した、知里幸恵はその序文に次のように書いている。
北海道の森林はアイヌ民族が支配していたころは、全面積の85%以上を占めていたと考えられている。それは今日では考えられないほど壮大な風景を演出していたことだろう。その森林が、明治以降の開拓事業以来しだいに伐採が進み貧弱になっていったのは残念なことだ。
北海道の森林は、サハリンや千島列島との連続性を認める亜寒帯性の常緑性針葉樹と、北海道以南の温帯から北上してきた落葉性広葉樹の混合で成り立っている。針葉樹には、エゾマツ、トドマツ、アカエゾマツなどがあり、広葉樹には、ミズナラ、カツラ、ハリギリ、シナノキ、ニレ、ドロノキ、ヤチダモ、イタヤカエデ、ダケカンバ、キタコブシ、エゾサクラ等がある。
私がアルバイトをしていたころ、盤尻の森林はまだ御料林と呼ばれていた、つまり皇室の林というのである。私達は盤尻に行くことを、御料の山へ行くと言っていた。もっとも新憲法の発布によって、御料という言いかたは公にはさすがに廃止になってはいたようだ。明治の開拓時代から戦前にかけて北海道の森林の区分には、国有林、道有林、御料林、大学林(富良野の東大演習林、雨竜、天塩、苫小牧の北大演習林)、そしておそらく、わずかの私有林があった。
一度私は、父と御料の森林の中を歩き回ったことがある、父は笹薮を巧みにかき分けて、まるで忍者のように進みながら、この森林から木材がどの位とれるかの値踏みをしていたようだった。私は歩くことにかけてはいささか自信があったのだが、まったく父には歯が立たなかった。現場で木について教わろうと思っていたのだが、まったくわずかしか聞き出せなかったのが今でも残念に思う。父の死後、営林署に勤めていた従兄の話では、山を歩かせたら同業のなかで父についていける者は一人もいなかったそうだ。
その父が90歳の夏に、脱水が原因でせん妄状態となった。その時に、父が私に電話をかけてきた。父は「変な夢を見たので、今度一度、盤尻に連れて行ってくれないか、昔のことだが、悪いことをしてしまったので謝りたいと思っていた。もうそこには誰も住んでいないと思う、だから、罪滅ぼしに、木を一本植えてきたいと思う」というのである。しかし、せん妄が治まってから父は何も言わなかったので私もそのままにしてしまった。結局、盤尻で昔父に何があったのかはよくわからないままになってしまった。
もともと、父は結構おしゃべりなところのある人物であったが、自分の事はあまり話さなかった。私もまた随分薄情な息子で、振り返ってみると、盤尻や御料の山のことを含めて、父のことを本人に詳しく聞いてみることもあまりしなかった。
父が晩年、私の祖父母が狩太(今のニセコ町)の有島牧場で小作人をしていて、最後まで牧場に残っていたのだと話してくれた時には、さすがに、ひどく驚いたが、父はあまり深く話をしたくはないようだった。私は結局、それ以上のことを聞き出せないままにしてしまった。そのことはいまも後悔している。ただ一度、やはり父の晩年に私は、これまで、やってみたいと思っていたことがあるかと尋ねてみたことがある、すると父はカナダで針葉樹を切ってみたかったなとぼそりといった。そして、尋常小学校しか行けなかったので、もう少し高い教育を受けたかったというのも父の果たせぬ夢だった。
教育は受けていなくても、父はなかなかの物知りで、私はよく父の知恵に助けられた。父は90歳を過ぎてから瀬棚町の病院に入院させてもらい96歳で亡くなるまでの期間、透析を受けていた。その病院で、しっかりした話しぶりのせいもあったのだろうか、父は仲間から、「教授」と呼ばれていたと死後に聞かされた。私はそれを素直にうれしく思った。
死後に「教授」が残していった本は二冊だった。一冊は雑誌で、もう一冊は、本多勝一著「アイヌ民族」だった。父はどんな思いで「アイヌ民族」を手にしたのだろうか。私は、父の思いを充分に測りきれないままに形見として、自分の本箱にそれを収めた。その時に、盤尻の山の中で父を必死で追いかけた時と同じように、おやじには、かなわないなと私は思わずつぶやいた。
*
私の母が死んだのは、私が小学2年生のときだった。母方の祖母と留守番をしていた時に、電話が鳴って私が受話器を取ったが、大人に変わるように言われて、祖母に渡した。少し話を聞いていた祖母が受話器を持ったまま急に大声で泣きだした。電話は、母が喘息で入院していた札幌の病院からで、母が突然亡くなったという知らせだった。その晩、お棺のなかの母を見ながら、父が祖母の肩に顔をうずめて声をあげて泣き出した。私は事態の深刻さを充分に受け止められないままに、馬鹿げたことに、大人でも泣くのだと感嘆していた。自分では泣かなかった。
その祖母が亡くなったのは、私が大学の3年目の時で、一月のことだった。父が、用事で行けないので私が代わりに葬式に出席することになった。私は初めて着た背広と初めてのネクタイに気をとられながら汽車に乗り込んだ。目的の、昆布駅に着いた時には、20時を過ぎていた。外は真っ暗で、文字通り凍てつくような寒さだった。駅で待っていてくれた二人の叔母によく来たと歓迎を受け、祖母の家まで40分はかかるからと言われて乗り込んだのが思いがけないことに、馬ソリだった。
叔母は私が座るとすぐに角巻を渡してくれた、懐かしい感触の角巻にくるまって、私は随分昔にもこんな体験があったなと思い出をたどりながら、馬ソリの動きに身をゆだねていた。薄っすらと、幼いころに急病に罹って、暗い雪道を盤尻から恵庭に向かう馬ソリに揺られている自分のイメージが浮かんできた。しかしそれが事実なのか空想なのか不確かだった。
祖母が90歳を越しての大往生であったせいもあってか、叔母たちは多弁で上機嫌だった。知らない人が見ていたら、だれ一人として、葬式に出かけるところとは思わなかったろう。雪は降っていなかったが風が結構強く、時々吹き飛ばされた粉雪が頬にあたった。多分気温はマイナス20度以下であったろう、粉雪と共に冷えた空気が頬をこわばらせる。その空気には気体の持つ軽やかさはなく、冷えて固体化したかのような抵抗感と痛みをもたらす物質的な存在感があった。
空を見ると天の川が中央を流れ、めったに見ることのできない素晴らしい星空だった。星はこんなに沢山あるのだと改めて感動しながら、私は天体にまつわる乏しい知識を総動員して北極星や北斗七星、カシオペア座、オリオン座、アンドロメダ座などに見入った。あり得ないことだが、もしも馬ソリがスムーズに競馬馬のような速度で走ってくれたら、私は宮沢賢治の世界に潜り込み、銀河鉄道と並走して天の川を駆け巡り、暗黒星雲のような石炭袋を覗き込こもうとしているといった空想に浸れたかも知れない。
しかし、馬ソリは坂道を喘ぎ喘ぎ、突然止まっては突然進んでいった。一度私は、天の川に見入っていて馬ソリから転がり落ちてしまった。叔母たちは「おやまー大変、大事な息子が」と驚いたが、雪まみれになって元の位置におさまった私を見て声をあげて笑った。そして馬が長々と放尿したときには、匂いと尿の飛沫を浴びながら、「まあー失礼な、レディに向かって」と女学生のように笑い転げた。叔母たちは私に向かっても色々な話をしてくれた。その中に亡くなった母に関する思い出話もあった。
兄と年子の私が生まれて少したってから、叔母たちが二人の子供たちも少し大きくなったろうから、玩具を送りたいがどんなものがいいだろうと聞いたことがあったという。そうすると、子育てに燃えていた母は、この子たちに玩具はいりません、今住んでいる盤尻の素晴らしい景色や自然がこの子たちの大切な玩具なのですと答えたという。このエピソードは、私の盤尻の思い出と母の思いを繋いでくれる大切な贈り物として、今でも私は、それを伝えてくれた叔母たちと何よりも母に感謝している。
亡くなった祖母の家で、私はたくさん集まってきていた親戚一同に温かく迎えられた。私が知っているのはその中のごくわずかの人であった。それでもどこか皆似通った顔立ちだった。まさに、ヴィトゲンシュタインがいう、家族的類似性だ、自分も確かにこのメンバーの一員だと思いながら自然に打ち解けていけた。特徴的な赤鼻の持ち主で、祖母の一番下の弟が、茶碗酒を大切にかかえて私のそばにきた。ばあさん(祖母の事)が死んでしまったので、兄弟は誰もいなくなった、自分の友達もみんな死んで残ったのは自分一人になった、今度は、わしの番だ。と赤鼻は淡々と言った、私は、また一人仙人と出会えた、赤鼻の仙人だと思いながらなぜか嬉しかった。
診察室の窓
私はぼんやりと窓から外を眺めるのが好きである。その時に見えるものが何の変哲もない風景であっても、時にはいろいろなことを語りかけてくれるし、考えさせてくれる、時にはふと心を和ませてくれるものだ。なぜ心が和むのかは私にはよくわからない。それでも、窓の外に見えるものが、たとえば空や川や山々が、あるいは建物や車や人々が、そしてそれらがかいまみせてくれる人間の生活の一断片が、草木や花や鳥たちがその時々に一つのパノラマをなして、私の視野に映る時、それはいわば心地よいバックグランドミュージックのように心を和ませてくれるのだ。
だから私は、砂川市立病院精神科外来の診察室の机が窓の前にあって、そこから確かになんの変哲のないものだが、一つの風景が目の前に見えるということは、ほんとうにラッキーなことだと思っている。外来が目のまわる暇もないほど忙しくても、診察室がどんなに騒々しくて狭くるしくても、冬になって窓枠からどんなに冷たい風が吹き込んで、私の太った骨身にまでしみ込んできても、私がこの外来診察室が気にいっていられるのは、オーバーに聞こえるかもしれないが、まったくのところこの窓のおかげなのである。そうは言っても、もちろんいつもボーと外を見ているわけにはいかない。せいぜいのところ、新しい患者さんが診察室に入ってくるまでのほんの短い時間帯に外の風景をみて気分を切り替えたり、外を時々見ながら話しの内容を整理したり、患者さんと一緒に外を見ながら会話をしたりといったところである。雪景色を見ながら、今の季節は、と問いかけると春かなとお年寄りが自信なげに答えたりするといった具合にである。
さて、実際に診察室の窓から見える風景は、視野の真ん中を逆十字型に走る街路とその街路樹、右手に市役所の全景と市役所前の広場、そしてすこし手前の駐車場といったところが主なものである。2年ほど前までは、市役所の前の広場にある鉄製のモニュメントの横に時計があって、真っすぐ窓の方向を見ていたので、私は時々それをさりげなく眺めては診察のスピードを調整していたものだ。それが最近ではこっそり腕時計を見ながらおこなわなければいけない。患者さんによっては目ざとくそれを察して、長話をしてすみませんと気を使ってくれたりする。10分程度しか話をしていなくてもである。まもなく我々の病院では予約制を導入することになっているので、腕時計をみる機会はますます増えそうである。
患者数が多すぎるのでやむをえないと思っているのだが、私はいつも時間に追われるストレスと戦いながら不満足な診察をしてしまっている。患者さんも当然不満足であるにちがいない。診察室と待合の廊下を隔てる壁が薄すぎるので、よく患者さんの色々な声が聞こえてくる私の声ももちろん向こうには聞こえているだろう。しかし診察の時にはいつも忘れている。
さて廊下からの声で、たとえば二時間も待っているのに遅いなと聞こえよがしの声はいつものことなので慣れてしまったが、診察室から患者さんがでていったとたんに、もう終わったの、話をきちんと聞いてもらったのと他の患者さんのものらしい声が聞こえたりする時にはさすがにこたえる。
時間に追われるストレスは我々の時代のストレスの代表である。もしかすると、我々はもうとっくにほんとうの時間の使い方を忘れてしまっているのではあるまいか。エンデは灰色の時間泥棒と戦い、ほんとうの人間的な時間をとりもどす少女“モモ”の物語を書いた。私のいる診察室はモモの世界から見ると、とっくに葉巻をくわえた灰色の時間泥棒の男たちに占拠され、彼らのなすがままなのだ。
モモが助けにきてくれそうもないので、私は多少ともゆとりの時間を得たい時には頻回に窓の外を眺めることにする。すると少しは良い。14年前ならば、こういう時にはタバコの本数がむやみに増えたりしたものだ。診察中のストレスが診察室の窓から眺める風景で緩和されるというのは、いささか強弁すぎる気もするが、私は勝手にそう思い込んでいる。こういうことは本人が良いと思えば、それで良い効果が得られるものだ。外の風景の中で、何よりも効果的なのは、私の場合は街路樹だ。街路樹は一年を通じて眺めていると、四季折々にきわめて鮮やかに色彩を変えて気持ちを和らげてくれる。
まず、春になって木の芽が膨らみはじめ、新鮮な緑が枝をおおい始める頃、街路樹の根本のわずかなスペースには、ふきのとうが顔をみせ、やがてタンポポが花を咲かせる。
夏場には目の前の街路樹が思いがけなく豊かな緑の葉を繁らせる。この木が何という木なのか気になりながら、まだ調べてみていない。楡の木だろうか。ともかくも夏場には視界が緑いっぱいになる。木々の緑や空の青は理屈抜きに精神安定作用がある。それは我々の脳内のおそらくはDNAレベルで刻印された事象なのではあるまいか。この楡の木の緑をめがけて訪れるのは、虫たちの他はカラスとスズメというのはご愛嬌としても、この時期に診察室の窓を開けると、結構色々な虫が飛び込んでくる。大きな蜂が飛び込んできてびっくりしたこともある。砂川のように自然がまだ自然の姿を多少とも保っているところでは、街の中とはいっても、その生態系を注意深く探索したら意外と豊かで捨てたものではないのではあるまいか。生き物はしたたかなものだから。特に小さな生き物はそうだ。このところ、我々はしたたかな細菌やウイルスにやられっぱなしである。
さて、ナナカマドの実が赤くなりはじめるともう秋である。街路樹が最も鮮やかな色彩をみせるのは、何と言ってもこの季節だ。今年は特にナナカマドの赤とポプラや白樺の黄色のコントラストが見事だった。
紅葉がすべて落ち葉になって、やがて木々が雪化粧をするまでのわずかな期間がもっとも街路樹がみすぼらしく寒々と見える時期である。もしかすると、都会に住む若者たちはしだいに季節の移り変わりに興味を感じなくなっているかもしれないが、私にとっては小さな窓から、ささやかながらも季節の変化を実感できることは、この上なくうれしいことである。街路樹のことはこのくらいにしておこう。
私は約16年間、この診察室の窓から見える風景に付き合ってきたから良く知っているのだが、市役所前というのは実にいろいろな人物が出没し、様々な出来事が起こるところである。幾つかのお祭りを含めて街で行うイベントの多くは市役所前の広場を起点とする。消防の出初式が行われ、交通安全のパレードが出発し、北高校野球部が甲子園に出かける前に立ち寄るのも市役所前の広場である。ここではまた選挙の車は必ず立ち止まる。そう言えば右翼の車が選挙の車以上にやかましく何やら喚き散らしていくこともある。
さて、どうしても窓から自分の患者さんが見えると気になるものだ。ある患者さんは市役所前の広場の清掃を主な仕事としていた。そのため私は長年、彼の働く姿を見続けてきた。彼は常時、幻聴のある人である。病気を持ちながらも立派に社会生活が可能なのだと彼の姿はいつも無言で私に語りかけ、私を力づけてくれた。その彼が2年ほど前に突然首になった。彼をささえていた同僚が定年退職したために、彼が急に周囲から問題の人物として浮き上がってしまったらしい。私はうかつにも彼を支えている同僚がいたことを知らなかった。妻は彼を入院させたがったが、私はその必要はないと考えて断った。割り切れない気持ちが幾分残ったが、彼のために障害者年金の書類を書いた。市役所前の広場は彼がいなくなって少し寂しい場所になってしまった。
しかし、広場にはまた別の一群の患者さん達が時々現れては私を元気づけてくれる。彼らは「くるみ作業所」のメンバーである。この数年、夏場になると市役所前の広場には、ひまわりが花を咲かせている。たぶん市民にはあまり知られていないと思うのだが、このひまわりをプランターで育てているのは、くるみ作業所のメンバーである。これは作業所がボランティア活動の一環としておこなっているもので、メンバーが市役所前に現れると、私はいつも診察室の中でなんとなくうれしい気持ちになり、元気になれるのである。同時にひまわりがきちんと花をつけるかどうか心配にもなるのだが。
くるみ作業所は9年前の創設の時から、私もかかわりを持っている精神障害者の小規模作業所である。感謝すべきことに毎年空知医師会の砂川部会から賛助会費をいただいている。もう一つここに、少し以前の事になってしまって恐縮だが、ぜひ書き留めておきたいことがある。それは空知医師会の会長より御父上の香典返しとして、くるみ作業所にご寄付をいただいたということである。関係者の一人として深く感謝申し上げたい。それをもとにして車を買わせていただいた。今年も車はメンバーを乗せて、しいたけ栽培をしている旧一の沢小学校へ、また大根を仕入れに富良野へと走り回っている。作業所に関しては、私はまた別の機会に報告したいと思っている。
診察室の窓から見える風景をめぐって、とりとめもないことを書いてしまったが、精神科の診察室にはあえて言えば、もう一つ大事な窓がある。それは心の窓である。心の窓とはいささか曖昧な表現だが、精神医学そのものもあいまいなところがあるので、あえて言えば、精神科医の仕事は心の窓から心の風景を見続けることにあると云っても良いかもしれない。
さて、私の心の窓はしばしば曇ったり、よこしまであったりするのだが、仮に心の窓にみがきをかけて、せいいっぱい心を込めてコミュニケーションをはかったとしても。人の心の中は完全にはのぞきこめないし、完全にはわからない。仮にわかったと思っても、それは一つの仮説であり、場合によっては一つの思い込みに過ぎない。たぶん、そこらあたりに、精神医学が最後まで科学になりきれない原因があるのではあるまいか。もっとも私は精神医学のそういうところを気にいっているのであるが。
(初出は、空知医師会の雑誌「空医だより」第33、1996年である)