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散歩と雑学と読書ノート
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三枚の街路樹の写真は、11月3日の散歩の途中に撮影した。街路樹の紅葉が美しくカメラを向けたが思ったよりも暗く撮れてしまって美しさが半減してしまった。
このことは以前にも書いたような気がするが、11月3日の文化の日になると私はこの数年きまって小中学生の頃の体験を思い出す。それは文化の日に学校へ出かけた時の記憶である。もっとも、それを懐かしく思い出しているというわけではない。当時の文化の日には毎年結構な雪が積もっていたので長靴を履いて学校に向かい、日の丸の旗が掲揚された体育館で校長先生の話を上の空で聞いて我が家に戻ってきたものだ。なぜこのことを毎年思い出すのだろう。不思議な気もする。文化の日に子供たちが学校に呼び出されることは最近はなくなったし、また当時のように雪が積もっているという経験もしなくなった。私にとって、小中学時代の11月3日という日付は、記憶の中の積雪によって、雪がめったに降らなくなった近年の11月3日とは明らかに違っていたことを分かりやすく提示してくれる大事な思い出となっている。
今年も街路樹の写真でわかるように、雪のない文化の日であった、散歩をしながらやはり雪道を歩いていた昔を思い出していた。この違いは温暖化の影響によるものだろう。気象学者はわが国の季節の推移が一か月ほど遅くなっていると述べている。私の感覚では、子供のころから見ると、夏が長くなって暑さもきびしくなり、そのせいなのか秋は短くなって初冬の時期にすこしずれ込むようになった、そして本格的な冬の訪れは遅くなっているという印象がある。
雪が降る前に白い小さな雪虫(アブラムシの仲間の総称)の集団が飛び交うものだが、今年は去年ほど多くなかった。天敵が発生したのだろうとのことだ。雪が降るのは遅くなると思っていたが、11月7日に思いがけなくけっこう積もって気温も下がった。しかし数日で雪はほぼ消えてしまった、こういうことが何度か繰り返されて雪が本格的に積もるものだが、そうなるにはまだ一か月はかかるだろうと思う。しかし気象庁の長期予想ではこの冬は寒さが厳しく雪も多くなりそうとのことだ。私の予想よりも早く雪が積もるのかもしれない。
近年の気候変動に私は強く興味をひかれている。特に温暖化の原理をしっかりと理解しておきたいと思い何冊かの本を読んでみたのだがなかなか難しくてぴんとこないことが多い。
原理は別としても、温暖化による影響はますます身近に体験することになりそうだ。しかも危険な現象に見舞われるのではないかという不安もよぎる昨今である。
次のアメリカ大統領に温暖化というのはフェイクだと言ってはばからないトランプ氏が選出されて、地球温暖化の対策がますます後れそうだと危惧されている。この世界は、この地球はいったいどうなっていくのだろうか。
読書ノート
「初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」 (6)
松岡正剛X津田一郎 文芸新書、2023
(1) 第10章 集合知と共生の条件
第10章は「集合知と共生の条件」についての比較的短い章である。対話をリードしている松岡の「集合知とかコレクティブ・ブレイン(集団脳)については、どう思っているのですか。これはずっと聞いてみたかった」という発言からこの章の対話は始まる。
津田は集合知がいちばん効果を発揮しているのは昆虫だろうと思うとして、昆虫は集合的な社会を構成して、個体以上の知恵を発揮できるようにしている。淘汰圧は個体にかかるものなので集合体の形成によってそれを狭小化しているとみなしてもよいだろうという。とはいっても最近「ミツバチがゼロを理解した」という論文を読んで、ゼロを発見するくらいの個体の能力にびっくりしたと津田は述べている。
話題は人間の集合知に移るとややトーンダウンする。哺乳動物で集合体の単位の最大なものは、たぶん人間で、150くらいである。野生のウマはたぶん10程度、サルも数匹とか数家族程度。そうした集合体で集合知をうまく発揮しているかというと成功していない例が多いと思うというのが津田の意見である。
松岡は人間の集合知というものに何かの可能性を感じますかと問う。津田は人間の社会を見ていると、集合知はないような気がしますね、集合知があればもっと健全な社会になっていると思う。ある社会実験では集団となるとどうしても人間は、「A」と「notA」に分かれてしまう。つまりトランプ対反トランプのように分かれてしまって、それをアウフヘーベン(止揚)できない。個々人ではできても集団となるとなかなかできなくなるという。
ただし学会や研究者仲間はある種の集合知を使っているのですね。と津田はいう、そしてアメリカでのサイバネティクスの研究グループが主導したメイシー会議やサンタフェ研究所での複雑系の科学者の集団の活動、あるいはフランスの数学者集団であるブルバキの例をあげている。また津田自身も日本で「脳の五人組」という集団を作って集合知がうまく作動した経験を述べている。
松岡は学者集団の集合知のあり方について、湯川さんや朝永さんの時代には科学的成果以外に自伝めいたものを書いていましたね。自伝的なものには当然、仲間のことやライバルのことも出てきます。科学者とその同時代の動向がそれによって共有されやすくなる。一種の観察者がそこに潜在しているほうが集合知は出やすいと思う。だから、場合によってはエディターシップが出るような集団のほうが、大きな力が出て、活性化されるし、外部の言語にも晒されるので、ジャーゴンばかりが飛び交わない。と重要なことを述べている。津田もなるほど、最近はそういうものがさっぱりないですね。編集者が入ると大分違うと思いますね。と賛同している。
話は学者集団のリーダの役割に及ぶ。ある集団のリーダはどうあるべきかということは重要なことだがなかなか結論を出しずらい問題である。津田は、たしかに魅力的なリーダの存在は。ゆるい拘束条件となり相互的な集合知のようなもの生まれやすいかもしれないと述べている。
ついで話題は寄生と共生の問題に移り、津田は人間の脳も「他者の脳」の影響を強く受けていて脳は共生していると言ってもよいと思うとこれまでの主張を展開する。私はまったく津田の意見に賛成である。
松岡は共生がもともとどこでいつごろ起きたのだろうという疑問を提出する。たとえばミトコンドリアが細胞内に住みついて共生を始めたあたりだろうか。
津田はそれに対して生命が出現する前の段階から、つまり化学進化のレベルから共生はありますね、酵素ができたあたりからある種の寄生というか共生があって、共進化をしていると考えられる。
松岡はリン・マーギュリスはその手の先駆者でしたねという。マーギュリスはアメリカの生物学者で、適者生存に反対して、競争ではなく共生こそ進化の原動力であるという共生説を提唱した。
松岡はさらにそれにしても共生のメカニズムは何なのだろうねと疑問を投げかける。
津田は居心地がよかったということですよといいながら、共生がエネルギーのムダを省くことになる。生命は本来どうすればエネルギーと情報をうまく獲得していくかが問題になる。生体にとって情報を作るのには莫大なエネルギーが必要になる。共生による居心地をだんだん良くしようとすることは省エネになっていくことである。それは引き算の論理があるからですね。と津田は述べる。引き算に関してはこの読書ノートの連載では5回目の前回(第9章)にすこし詳しくふれた。
松岡は進化のプロセスによるが、省エネも二つある、初期は文脈自由のほうが省エネで、進化が発達してくると文脈依存のほうが省エネになるという。
松岡はさらに省エネであれ引き算であれ、それがどのタイミングで、どこで起こしているかが重要だとする。
津田は松岡の意見に対して、たしかに場所の特異性が重要だとして、環境の中で占める位置は進化にとって重要です。さらに体の中の場所をみても、どの器官で貸し借りするかということも共進化にとって重要で、占める場所によって情報の意味も違ってくると述べている。
松岡は再び場所の話に戻った。場所に情報が宿っていくという話。やっと本論の最終場面にさしかかってきた。と本章を締めくくっている。
付記
書物の感想に書かれたことでなく書かれていないことをあげつらって不満をもらすのはもちろんフエアーなことではないし、無作法なことだとも思う。ただ私はこの章に関してはあえてそうした無作法をさせてもらいたいと思う。集合知の議論に関してである。本章の集合知という言葉で、私は語られた内容だけでなく別な内容にも触れてもらいたかったと思う。
百科事典もふくめた書物や図書館などに体現されていた人類の集合知のあり方が現在ではネット上に流れる不特定多数の人々の集合知に変貌している。たとえば、ウェブ上の百科事典であるウキペディアやグーグルの検索、さらにはChatGPTなどの生成AI がもたらす膨大な知的情報へと集合知が変化あるいは進化している。そのことで生じている問題点に関しても触れてほしかったと私は思うのだ。
私はネット上の専門家以外の人々の知の集積としての集合知に関心がある。また人間の集合知がネット上でしばしば暴走してしまうのをどう制御できるだろうかということは近未来の難題であるとも思っている。もちろん、制御など必要でないという意見もあるかもしれない。そのてんも含めて人間の集合知について語ってもらえたらよかったのにという思いがある。
ところで、集合知をどうとらえるかを抜きに集合知を語るのは問題である。その集合知をいくぶん専門知よりの視点で見てみると、本書そのものが優れた知性の持ち主である二人の筆者がいわゆる文系、理系の壁をやすやすと乗り越えて、人類の集合知にアクセスしながら、二人で作り上げた刺激的な知的創作である。私はそのように思いながら、この引用だらけの読書ノートを作成した。さらに言えば松岡正剛の「千夜千冊」という途方もない試みは、松岡の編集による人類の集合知として読むことも可能だと私には思える。
(2) 第11章 神とデーモンと変分原理
いよいよ最後の章である。「神とデーモンと変分原理」と題されている。
変分原理に関しては本書の第4章でも詳しくふれられている。この読書ノートの中では第2回目にあたる6月27日の記事で私はその点に触れている。
私はその時と同様に今も変分原理を十分理解できていない。解析力学の本を買ってみたが、思った通り理解は難しい。津田の話にしっかりとついていける松岡の学識には脱帽である。
私の関心はやはり脳の働きに向いてしまう。私は複雑系としての脳の働きのプロセスでカオスが生じることが重要だというのが津田の主張だと思っていたが、本書で津田はもう一つ脳のとくに機能分化との関連で変分原理を極めて重要視していることを知った。津田の現在の関心はカオス以上に変分原理をもちいて脳の機能や存在の発現を読み解くことにあるようだ。
津田はニューラルネットワークの数理モデル的研究を進めて、ニューロンの運動方程式とインテンショナルな情報を拘束条件にして、これを最小化するように変分をとると機能が分化していく筋道がみえたという。
具体的にいうと、一つは(変分原理を利用する)力学系のネットワークからニューロン的なものが出たんです。もう一つは入力のところに視覚的な刺激と、聴覚的な刺激を両方同時に入れて、いろいろ計算してみるとアウトプットのところで視覚だけに特化したニューロンと聴覚だけに特化したニューロンができた。しかし完全に分化はしないで、両方できるものが残っていて故障した時に補えるようになっている。それは人間の体験する共感覚の原因になっていると思われるという。
興味深い研究結果である。おそらく実際の脳の機能分化でも変分原理が作動しているのだろう。だとすると脳の中の機能分化にかかわる運動方程式はどのようなものが考えられるのだろうか。津田やフリーマンは脳の中にカオスが実際に作動していることを見出しているが、変分原理も同じように脳の中で作動していることが見出されているのだろうか。
私はさらに、脳の機能を考えるうえで、カオスと変分原理がどのように関連しているのか、ということが気になる。その点に関して、津田は次のように述べている。
脳がなぜ変分原理を使うのか、その理由まではわからないけれども、われわれの変分原理がうまくいったということは、なんらかの「拘束」がかかったということです。
実際の脳にどういう「拘束」がかかったのかはまだ具体的にはわかりませんが、可能性のひとつに情報をシステムの中に伝えていくことを最大化するというのはあったんじゃないかと考えます。情報をどんどん自分のネットワークの中に入れていかないと分化は起きないし、共通部分も出てこない。
もうひとつはフィードバック回路(回路,再帰)があることが大事なんですね。元に戻す構造が脳の中にあると、カオスができる。われわれの数理モデルでは、(変分原理に基づいて)機能分化が生成されたときの神経ネットワークのダイナミクスは多かれ少なかれカオス的なものだった。やっぱりカオス的になっていることが大事なんです。
松岡は津田の説明を完璧だと評価したうえで、そのカオス的なるということは遺伝的な発現でもおこっていることですかと尋ねる。
津田は基本的には遺伝子に書かれている部分が当然あるわけです。実際の脳は、個体発生がずっと発展していくことで形成されるので、基本的には決まった遺伝子が発現されていく。遺伝子がある種のプレッシャーを変分的に持っているわけで、それは進化的にある程度決まってきたものだという。
松岡それを聞いて、いわば「変分子」みたいなものが機をうかがっていて、あれこれと試しながら決めていく。ということは脳は「最適化」というものをうすうす知っているというわけですね。
そうです試してみて何をもっていちばんよかったかというと、これ以上は変化しなかった状態です。それは「ナッシュ均衡」に対応するような状況から脱してパレート最適に持っていくかということで、そこへ向かっている。というのが津田の答えであるが私の理解はあやしくなる。
ウェブ上で見つけた簡単な説明によると、ノイマンとナッシュのゲーム理論で、現在とっている戦略が他の人の戦略に対して最適な反応である場合にナッシュ均衡という。またゲームで誰かの利得を改善しようするためには他の誰かの利得を低下させなければいけないというのがパレード最適である。
松岡は、何かのゲノムにとってパレート最適はいちばん有効なんだね。「試して試して、よしここでいく」という道筋を脳が持っていて、そのどこかのプロセスに変分の神が関与したんだとすると、これはいろんなところに言えることになりますね。情報を入れこむとうまく前へ進むということは、情報解釈が可能なほうへ変分が働いていることになります。と津田の話に説明を加える。
津田は話をさらに進める。脳はその後、環境からの拘束も受けながら、胎児から乳児にかけて劇的に変化します。つまり遺伝子だけでなく、環境要因が拘束をかけることになる。そのほとんどが情報論的なものですが、頭蓋骨による物理的圧力のようなものが拘束にもなる。そこに拘束条件を与えると、それを満たす解を決めなくてはならないので、これは変分問題になる。機能を多様にしていくことが最大の効果だとすると、その方向への拘束が選択される。ここに、情報の解釈が可能な方向に向かう必然性があると思います。
脳の胎児のときから始まる変分原理にもとずく機能分化は、「意識の問題」にも関連するし、それは「拘束条件つきの自己組織」の問題として「自己の発生」の秘密も握っている。津田は、機能分化に注目したのは、それが複雑系の典型的な問題だと思うからですという。むしろそれを複雑系の定義としたいともいう。意識や自己組織の問題をこのように規定するのは極めて重要なことであると私は思う。
実際の脳細胞の発生分化に関しては、幹細胞(マトリックス細胞)のエレベータ運動で有名な「藤田晢也」氏の著書「心を生んだ脳の38憶年」(岩波書店、1997)に詳細が記述されていて、津田の理論と重ね合わせてみると、頭蓋骨の拘束の問題を含めて興味深いものがある。
津田はさらに変分原理を使って「幻覚」を説明することをやろうとしていると述べている。
それは、どこかで回路が壊れてしまったので再組織化しようとしたときに、ネットワークとしては戻っても機能的に戻らないときがある。そのときに起こるのが「幻覚」ではないかという仮説を考えているというのである。研究の進展を期待したいと思う。
津田の話を聞いて、松岡は津田さんが言う幻覚とか幻像はイリュージョンであり、デーモンでもあるわけですから、それはやっぱり創造の秘密に近い。しかも、それが複雑系のある初期のモデルに当たるよいうことが大事ですよ。複雑系がないかぎりは、情報をトコロテン式に押し出すような局所化も起こらないし、見まちがいとかミスマッチも起こらない。すると結局は創発も起こらないことになる。という。
私は幻覚の問題に関心を持っていてこのnoteに「幻覚をめぐる覚書ー知覚のもつれー」と題して三回に分けて書かせてもらったことがある。その一回目にあたる、2022年8月3日に記事のなかで、「幻覚の知覚的対象が脳内でどのように作られるか」に関して、次のように書かせてもらった。
「私はカオス理論でいう、奇形的なアトラクターが脳内に出現して幻覚が生じるというM・シュピイツアーなどの論じていることが今のところ最も可能性のある手掛かりと考える」(幻覚をめぐる覚書ー知覚のもつれー 1)
M・シュピッツアーは、ハイデルベルグ大学で「妄想問題の研究」で精神医学教授資格を取得。1997年よりウルム大学病院精神科の主任教授である。精神科医であり神経科学者である。彼は著書「脳 回路網のなかの精神 ニューラルネットが描く地図」(新曜社、2001)の中で寄生的アトラクターが作られてしまうことが、幻覚やその他の統合失調症の症状が形成されるニューロンレベルの基盤となるという仮説を述べている。
このことから、私は幻覚出現の脳内基盤としてカオスと変分理論が関与しているという二つの仮説が最も興味ある有力なものであると思う。しかも、その両者の見方が関連し合ってくることが津田の説明から考えられて一層興味を駆り立ててくれる。
対話の話題は「物語生成システムはできるのか」ということになる。変分によって意味がどのように生成できるかということに関して、松岡は何かシナリオを入れればいいんじゃないのと提案する。津田は変分をとるときにシナリオを入れてしまえば、出てきた結果に意味がちゃんとつくことになるかもしれませんね。と賛同する。松岡はそればできれば物語生成システムだといい、津田はそういうのができると、本当の意味で次世代AIができることになると応じている。そしてそれは解釈機能プロセッサーをどうつくるかという問題であるという。
津田はその他にやってみたいと思うことはと松岡に聞かれて、なかなか難しくて手付かずなんですが、最後に残るのはやっぱり、「言語」かなという感じがしますという。
二人の対話は「複雑系の定義を書き換える」ということや「複式変分能」という話題を経て、最後の話題は、「デーモンとゴーストの再会」ということになる。
「複雑系の定義を書き換える」のなかで、津田は次のように述べている。カオスは複雑系の一つのベースを作っています。しかし、それだけが複雑系のすべてではなく、複雑系のシステムは還元不可能な系です、複雑系はシステムの中に部品(サブシステム)を作っていくが、それを要素に還元しようとするとシステムが成り立たなくなるものです。そういう意味で、脳というシステムの中での変分原理にもとづく機能分化は複雑系そのものです。
デーモンとゴーストに関しては「あとがき」で松岡がふれていることをこの読書ノートの一回目にも記したが、ここでもう一度引用しておく。
「津田さんはずっとデーモンと戦ってきた。だからデーモンのことをよく知っている。科学にひそむデーモンだ。私は長らくゴーストを相手に戦ってきた。だからゴーストの癖や好みや意匠がよくわかる。ゴーストは文化のいたるところに出没する」
デーモンとゴーストという言い方には、科学や文化の知的な世界の不明瞭さを表現しようとする意図がこめられ、さらにはそれに立ち向かう二人の決意がこめられ、あるいその世界に対して新たな知的展開を予感させる意味合いがこめられているように私には思われる。さらには二人だけにわかる遊び心が反映されているかもしれないと私は思う。
本章の終盤に、松岡はゴーストに関して自説を展開し、ゴーストは偏在するものでもあるんですと述べている。私はその後に、津田と松岡が発した、本書最後の発言を引用してこの読書ノートを締めくくりにさせていただきたいと思う。
津田 偏在するなら心そのものですね。飯吉厚夫先生(津田が現在所属している中部大学創発学術院の名誉教授、元総長)からずっと「心とは何ですか」と問われていて、……「心とは数学です」言っても納得してもらえないので(笑)、機能分化の変分の式を示して「ここに心があります」と答えたことがあります。しかし、やはり納得されない。ふと思ったのはデーモンを明示していないからではないかと、ゴーストが心や精神と同義なら、ゴーストの数理表現としてデーモンを置くと、変分問題にデーモンが陽に現れてくるようにできるかもしれない。それがすなわち心だと言えるんじゃないかと思うわけです。
飯吉先生は核融合科学研究所の所長もされていた人で、プラズマ物理学の世界的な研究者です。プラズマは独特な不安定性があり、それはカオスに起因している。カオス制御はデーモンの制御といってもよいのでプラズマの閉じ込めは大変難しい問題です。しかし、それができれば地球に太陽ができたことになり、エネルギー問題は革命的に進化します。図らずも、デーモン制御の難しさを実感してきた方から「心」のお題が出たことに妙な縁を感じて、変分からのデーモンという発想につながりました。
松岡 なるほど、そのデーモンの姿をぜひ見てみたいね。ということで、デーモンとゴーストの再会も幕ということです。ぼくはゴーストそのもの、セイゴーストです(笑)。
付記
最後にネットの中で津田一郎氏が松岡正剛氏への追悼文を書いているのを、見つけたので、全文ではないが、その一部を引用させていただく。
追悼
デーモンから見たゴーストの死(津田一郎)
多くの人は理系の人間、特に数学者は人の死に対して冷静で感情的にならないと思っているかもしれない、実際にそのように言われたこともある。しかし、数学は感性であり心であるのだから、数学をするということは感情に動かされてのことであり、感情が先行するものなのだ。……
松岡さんの死は私にとって予想されていたこととはいえ、現実として受け入れがたく、いまだに認めたくない事件である。第一、松岡正剛はゴーストなのだから、死ぬことはないとデーモン役の私は思っているのだ。……
松岡さんは宇宙よりも広い知性としての言語を有限の言葉の編集過程によって理解する方法を編み出したのだ。有限の命を持つことが定義にさえ見える生物としての松岡正剛はきっぱりと死んだ。だからこそ”セイゴースト”という無限性を秘めた精神を理解し共有することは残された人々による編集力にかかっている。
松岡正剛氏と津田一郎氏による、「初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」の読書ノートをやっと書き終えた。思いがけず、長丁場になってしまった。それだけ私にとっては興味を駆り立ててくれる内容に満ちていたということである。二人の著者に感謝したいと思う。興味深い内容をどれだけ自分の考えの中で生かせるかはこれからの私の課題である。