【メモ】自己とは何か【京大オンライン講義】

京大のオンライン講義を視聴して考えたことのメモ書きです。
続く講義を聞くにあたり自分の自己観をまとめておこうと思っただけなので、ほとんどは講義の内容を踏襲したものではありません。

最後に少しだけ、講義と絡めたメモ書きがあります。

動画はこちらから

私の個人的な「自己」観

現時点での個人的な「自己」観です。

「自己」=「世界に対する認識の起点」と捉え、自己による認識が「世界」である、という考え方がベースです。
「自己」が他の自己を内包する構造になります。

※ ややこしいので、一般的な意味での一人称は「私」を使用します。

「世界」に含まれるもの

もっとも分かりやすいのは、私が見聞きしたものや知識、記憶の部分です。
これは狭義の「自己」とも言えそうですね。世界の内側において、自我の持続性を分かりやすく担保するものです。

そこからすこし範囲を広げて、私の想像を含みます。これは、前述した狭義の「自己」に対する「他者」を内包します。
たとえば、他者も私と同じような「自己」を持つだろう、という想像です。私が直接知覚できない範囲の物事について、想像力を働かせて「○○だろう」「○○かもしれない」と考える範囲のものごとを指します。

さらに範囲を広げて、私の想像の外にも世界が広がっているだろう、という認識も世界の一部とします。
これは本質的には扱うことができないものごとなので、在ると言えるのかどうかはあやしいところだと思うのですけど。
前述の「○○だろう」「○○かもしれない」の外側の話です。まだ見ぬもの、私の知識や想像を超えたものの想定です。
物自体とか、超越論的世界観みたいな話になってしまうのかもしれませんが、そうではなく、実際に「ただ想像できなかっただけのもの」も含みます。

唯我論(独我論)

「自己」=「世界に対する認識の起点」の考え方は、唯我論(独我論)と親和性が高く、実存的孤独に陥りやすいです。
言うまでもなく、あらゆる「他者」が「世界」に内包される形でしか存在していないためです。

内包される他者もまた「世界に対する認識の起点」である、と想像することがひとつの逃げ道になるのかもしれませんが、ちょっと構造が捻れてしまいますよね。

講義に絡めて

「自己」=「世界に対する認識の起点」とする考え方では、「自己」は「世界」を客体に置いた認識主体だと言えそうです。
でも、ただ在るものを認識するのではなく、世界そのものを認識によって創造する主体です。

でもこの場合の「自己」は、実存性を持った「自己」というよりは、客体として世界を扱うために必要な「フィクション」であると考える方が、私にはしっくりくる気がします。
「自己」を「必要なフィクションである」とする捉え方は、今回の講義で初めて目にしました。「必要性」について吟味したことがなかったので、面白いテーマを拾えたと思っています。

自己は不可逃脱物か、という論点もありました。
「自己」=「世界に対する認識の起点」であれば、自己は不可等脱物だと言えそうです。自己がなければ何もないわけですから……

「自己」=「われわれ」とする自己論について

京大オンライン講義で、出口先生が提唱されている自己論です。詳細は後の講義で明らかとなる予定。今はよく分かりません。
「自己」=「世界」=「われわれ」にシフトしたようなものでしょうか。
自己が他者を内包してしまう問題をどう捉えるのか、続く講義が楽しみです。

以上。ざっくりとしたメモ書きでした。
細かく詰めていくとたくさん粗がありそう!

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