天空のオアシスへGOKYO LAKE〜Day4〜
最悪の幕開け
「ドンドンドンッ、ドンドンドンッ!」
とてつもなく大きな音で目が覚めた。
何事かと思いドアの方に目をやると、ホテルの主人がずいぶんとキレた様子でこちらを見つめている。
寝ぼけていて状況がよく掴めなかったが、どうやら私は寝坊をしてしまったらしい。
腕時計を確認すると時刻はAM3:10だ。
主人は"迎えが来ているぞ、早く身支度にしろ"とブチギレている。
これが私が体験した、人生最悪の寝起きドッキリである。
眠すぎて何も考えられなかったが、幸い身支度は昨晩済ましていたため、スマートフォンをポケットにしまい、バックパックを担ぎ上げ、主人に寝ぼけながら謝罪をし、部屋を出た。
ホテルの前には迎えの車が止まっており、運転手に早くしろと急かされながらトランクにバックパックをしまい後部座席に乗り込んだ。
横には昨日知り合った大田原さんがすでに座っており、彼にも謝罪をした。異国の地で自らが犯したミスの現場に日本人が同席していることが罪悪感を増幅させた。
幸い飛行機の時間には間に合うとのことだったため安心した。
それよりも驚きだったのは寝坊した不届き者を迎えに来たことだ。
普通ならば集合時間に現れなかった人間は容赦なく切り捨てるのがツアー会社の鉄則だ。
今回はツアー客が2 人だったことやフライト時刻まで余裕があったことが理由なのだろうか。
とにかく運転手さん、大田原さん、そして何よりホテルのご主人にこの場を借りて謝罪をする。
申し訳ございませんでした。
道沿いのレストランで朝食
ホテルのある首都カトマンズから向かうは車で5時間の距離にあるラメチャップ空港だ。
2019年度より首都カトマンズールクラ間のフライトが減ってしまい、車でラメチャップ空港に向かいそこからルクラまで飛ぶのがメジャーになっているそうだ。
朝早かったこともあり罪悪感を押し殺して私は眠りについた。
目を覚ますとAM6:00を回っており、車は道中のレストランに停車した。運転手が朝飯を食べようと言ったため3人で車を降りて入店した。
私は紅茶と運転手オススメの品を注文した。
朝飯が出てくるまで10分ほどかかると言われたためレストランの裏庭に出てみた。
庭にはチェーンで繋がれたヤギがいて、何とも言えない表情でこちらを見ている。
そういえばカトマンズに滞在した2日間街中を人間と散歩するヤギが散見された。
席に戻り現地人である運転手に尋ねると"そのヤギはこの後食べるんだ"と言っていた。
この2日間で遭遇したヤギは全て祝日のための生贄であることが判明した。
生き物を締める行為がどこかタブー化されていて、普段"生"を感じることがない日本から来た私にはどこか新鮮な気持ちがした。
2018年タイ・バンコクで訪れた現地人マーケットでまだ生きている鶏たちが閉じ込められたケージの上に締められた鶏たちが吊るされている生と死の衝撃的なコントラストを思い出した。
生物を締める営みの上に人間の生活が成り立っていることを再確認したところで朝食の準備ができたようだ。
運転手のオススメとは、ひよこ豆をただただ湯がいたシンプルなものだった。
そのままでは味がしないので塩を振りかけ頂いた。
何の変哲もない豆の味だったため特に美味しい不味いだの感じることはなかった。
非常にシンプルな朝飯を堪能したところで私たちは車に戻り再び飛行場へと車を進めた。
残り2時間ほどで飛行場に到着するとドライバーが話していたため、私は再び眠りについた。
川沿いの道の話
1時間ほど経過したところでドライバーがなにやら私を起こそうとしていることに気がついた。
そのまま眠る手もあったが、私はドライバーの話に耳を傾けた。
"今走っている道は日本の政府が作ったんだよ"と話し始めた。
ドライバー曰く川沿いの道路は何度整備しても崖が崩れてきたり、無理な設計にして急な坂ができてしまったり、大雨によって増幅した川に道が削られてしまったりとこの地域の悩みのためだったと言う。
日本とネパール政府の協力事業で整備されたこの道はとても走りやすいと言っていた。
なによりこの道を設計した日本人のエンジニアはとても優秀だと感謝された。
異国の地で日本人が作った道を走っていることに少しエモーショナルな気持ちになった。
眠気さえなければ涙でも出ていただろうか、いや出ない。
飛行場にて
5時間の長時間ドライブを経て無事に飛行場に到着した。
ここまで運転してくれたドライバーに別れを告げ、私と大田原さんはバックパックを担いでカウンターに並んだ。
飛行場は川沿いのあり、砂が舞っていたとても埃っぽかった。
チケットのカウンターは建物の外にありそこに世界各国から集ったトラッカーたちが並んでいた。
日本の電車待ちのような整然とした列ではなくぐちゃぐちゃだ。
どこが列の境界線かすらわからない。飛行場の建物自体は人生で訪れた中で一番小さい。
例えるならば日本の田舎にある少し大きめの平屋ほどだろうか。
眠気も覚めたところで私は今朝寝坊したことをハッキリと思い出し、大田原さんとの2人の空間が気まずくなった。
筋書きのないドラマ
私と大田原さんはチケットのカウンターが開くまでしばらくの間ごちゃついた列の中にいた。
私が今回歩くルートをおさらいしようとバックパックから地球の歩き方を取り出そうとした。
うまく手に取ることができず地球の歩き方は地面にボンッと落ちた。
大学の図書館で借りてきたため、そこにははっきりと”法政大学多摩図書館"と記されているホログラムシールが貼ってあった。
それを目にした大田原さんがなにやら驚いた様子で"法政大学なの?"と尋ねてきた。私は"ハイ、そうです!二高出身です!"と返した。
すると大田原さんは右手を私の前に差し出してきて"私もです"という信じられない返事をしてきた。
私は一瞬パニックになりそうになったが差し出された右手を強く握った。
こうして法政大学生の私とOB大田原さんは日本から遥か遠く離れたネパールの小さな飛行場で落ちあったのだ。
私があの時トレッキングプランを変更しなければ、あの時街角のネパールのお兄さんに話しかけなければ、この出会いは生まれなかった。
この時私は、この大田原さんとGokyo Riの頂上まで行動を共にする未来が見えた。
この一件以降、大田原さんと私の距離は自然と近づいたように思えた。
タバコを没収された話
チケットカウンターの列が進み無事に手配していたチケットを手にすることができた。
飛行場の中に入りセキュリティチェックを受けた。
バックパックを台の上に乗せると若いセキュリティスタッフが中身を見せるように指示された。
私はバックパックの上部を開いて見せた。
スタッフは人のバックパックにもかかわらず随分と雑に扱ったあとに、バックパックの背面から何か尖ったものが出てるとイチャモンをつけ始めた。
そんなものはバックパックに入れたつもりはないが、そのままスタッフに荷物を預けた。
もう自由にチェックしてくれという感じだ。
その後私は手荷物と共にボディチェックを受けた。
手荷物の中身を全て出すように言われた私は全てをセキュリティチェック用のカゴの中に全て取り出した。
するとスタッフがタバコの箱を手に取った。
山の上では値段が上がると思い、3箱まとめ買いしてきたものだ。
スタッフはタバコは持ち込めないからと言い放ちそのままタバコをポケットにしまった。
反論するのも面倒だったため仕方なく没収された。
同じようにカゴに入れたマッチの方が火気厳禁の飛行機には危険なはずだが、そちらは没収されなかった。
どうやら彼らはネコババ目的で働いているらしい。
他には特にいちゃもんはつけられなかったため無事にゲートを通過することができた。
テイクオフ(世界一危険な空港)
いよいよフライトの時間が近づいてきた。川沿いの滑走路にひっきりなしにセスナが離着陸を繰り返している。
そこにトレッカーたちが次々に乗り込みルクラへ発っていく。
そんな光景を繰り返し眺めていると私たちの順番が来た。
案内員の指示に従って飛行場を歩きセスナの横に着いた。
このタイプの飛行機に乗るのは人生初だったため、高揚する気持ちを抑えるのが難しかった。
ひとつだけ不安があるとすれば、着陸する飛行場が世界一危険な空港と言われているテンジン・ヒラリー国際空港であることくらいか。
2019年4月に起きた死亡事故の映像をYouTubeで予習したため、死ぬときのイメージはできているつもりだった。
案内員からゴーサインが出たためセスナ機に乗り込んだ。
中は20 人乗りほどの座席数だろうか。
前から3列目ほどの窓側の席に着席した。
全員が乗り込むとCAさんからマンゴー味の飴が配られた。
貰ってすぐに口に含んだが、味の濃さで言うと日本で市販されている飴を3 倍ほどに希釈したような味がして2個目は必要なさそうだ。
そんな不味い飴を舐めているとシートベルトを閉めるように言われた。
もうすぐテイクオフだ。
運転手がエンジンを点けると、機体の両サイドについたプロペラが唸りを上げて回り始めた。
セスナは飛行場の前の乗車スポットを離れて滑走路のスタート地点に到着した。
乗客は皆離陸の瞬間をカメラに収めようと体を乗り出しフロントガラスに注目した。
セスナが前に進み始めるとプロペラが先ほどの比にならないほど唸りを上げて機体にパワーを与えた。
勢いよくスピードに乗ったセスナがポンッと浮いた感じがして気づけば空中に飛んでいた。
私の旅のメインディッシュがついに始まった。
どんどんと螺旋状に飛び高度が上がっていく。
飛行場がどんどん小さく見えていき周辺地域の田畑の境界線がはっきりと見えた。
フライト自体は15分ほどだ。
しばらくすると周りの客がざわつき始めた。
何かと思い窓の外に目をやると、真っ白で荘厳な佇まいをした山脈が遠くの方に姿を現した。
とにかく美しかった。
私は今からあそこに向けて歩くのかと考えると心が幸福感に満たされた。時間が経つにつれてその荘厳な山脈が姿を大きくしていった。
いよいよ機体が着陸態勢に入った。
気持ちが昂ぶりを抑えきれない私を”世界一危険な空港”というワードが現実に引き戻した。
窓から飛行場のようなものは見えないがセスナが高度を下げ始めた。
すると崖に建つ住宅街のようなものが遠くの方に見えた。
さらに目を凝らすとその中住宅街を二分する細い滑走路のような線が見えた。
セスナはその線を目掛けて直進した。
滑走路が近づいてきた。
フロントガラスの景色を見つめると山の斜面が壁になって迫ってくるのが確認できた。
セスナはそのまま崖に向かって飛んでいく。
数秒後機体が一瞬地面に触れてポンッと跳ねた。水切りで水面を跳ねる平らな石になった気分だ。
その後2回ほどその動きを繰り返した後、滑走路に着陸したセスナはプロペラを逆回転させ減速した。
無事に着陸成功だ。
どうやら私の寿命はもう少し先にありそうだ。
滑走路が着陸時は登り坂になっておりその傾斜を利用して減速するというなんとも原始的な構造をしていることがわかった。
減速している途中に滑走路左側に私がYouTubeで予習した事故の機体が放置されているのが確認できた。
一歩間違えれば"死"が待ち受ける着陸をなんとか乗り切った。
旅の開始地点ルクラ
セスナを降り、バックパックを回収した私たちは到着ゲートに向かった。するとそこにはポーター(荷物持ち)やガイドが30人ほど待ち受けており降りてきたトレッカーに一斉に話しかけ始めた。
私と大田原さんはポーターもガイドも使わないつもりだったため、無視した。
しかしトレッカーたちの大半はガイドかポーターを雇いなるべくお金がかかろうとも低リスクで旅を楽しむのがここの基本らしい。
空港の周りの道には水牛やロバと思われる動物がその背中にトレッカーの荷物を括り付け、のそのそと歩いている。
もちろんそこらじゅうの道にはその糞も転がっている。
私は買ったばかりの靴で糞を踏まないように気をつけた。
GOKYOまでの道のり
私たちが降り立ったのは標高2840mにあるルクラ、そこから2日かけて標高3440mにある大きな集落ナムチェバザールを目指し、そこで2日間高度順応をする。
順応したのちにナムチェバザールから4日間かけ高度を1400mほど上げ標高4790mのゴーキョという集落を目指す。
そしてゴーキョから標高5357mのGokyoRiにアタックする。
そこから同じルートを3 日間かけて戻るという計10日間の旅だ。
トレッキング開始
準備を整えた私たちは午前10時前にこの日の目的地、標高2610mのパクディンを目指して歩き始めた。
この日は4時間かけて標高を200mほど下げるため登りはじめの足慣らしにはもってこいのルートだ。
歩き始めてすぐ大田原さんは私に”行きたかったら先に行っていいからね"と言ってきたが、私は心のどこかでこの人と頂上までいくと決めていたた め、"僕も写真撮りながらゆっくり歩くんで一緒に行きましょう"と返した。
自然と大田原さんのペースで登ることになったため私は彼の後ろについた。
前大田原さん、後ろ私の陣形がこの時出来上がった。
私は持参したコンパクトフィルムカメラを肩からぶら下げシャッターチャンスを逃すまいというメンタルで歩くことを決意した。
私は持参したコンパクトフィルムカメラを肩からぶら下げシャッターチャンスを逃すまいというメンタルで歩くことを決意した。
登山道の話
空港の周りに糞が転がっている話をしたが、あの水牛やロバたちはトレッカーたちと一緒に高度を上げていくため、必然的に私たちの歩いている道にも糞が転がっている。
その数があまりにも多かったため糞を避けるのに苦労した。
こんなにも多くの”糞"という単語を入力したのは人生で初めてだ。
糞を避けるのに慣れてきたところで登山道の途中には大きな石が現れた。
そこには何やら呪文のようなものが白い塗料で書かれている。
それが何個も何個も点在しているのだ。
おそらくチベット仏教の何かであろうと考えた。
帰国後に調べるとそれが石に書かれていた文字はチベット仏教のお経であることがわかった。
石に触れることでお経を読んだことになるそうだ。
荷揚げ役の動物たち
先ほど挙げた水牛やロバといった動物たちが背にトレッカーの荷物やプロパンガスをくくり付けたり、または人を乗せたりしながら歩いている。
そのほとんどは数頭のパーティを形成しており数頭~何十頭と数は様々だ。
前後にしつけ役の人間が付いていて、苦しそうに歩く動物たちにムチで喝を入れている。
急な坂を前に苦しそうに舌を出しながら立ちすくむ水牛がムチで叩かれているのを見て、率直にかわいそうだなと思ってしまった。
しつけ役のお兄さんもムチで叩くのが仕事だと思うと仕方ない。
吊り橋を渡る時などは一方向ずつ渡らないとすれ違えないため、動物たちにとっては束の間の休息になるのだ。
私は苦しそうな動物を見つけては背中をポ ンッと叩いて激励した。
標高2610mパクディン
川沿いの道をグングンと進んでいくと1日目の目的地・パクディンに到着した。
私たちは宿を探すことにした。
このトレッキングでは街に到着してから空き部屋があるかを尋ねるのだ。
価格や設備などを比べて最適な宿を探す。
私は大きな文字で"FREE INTERNET” と書かれた宿に入り宿泊料金を尋ねた。
私より同じか、もしくは少し年下かと推測される好青年が笑顔で1人500ネパールルピーだと伝えてくれた。
大田原さんに価格を伝え、私たちはこの宿に泊まることにした。
早速2階の部屋に通された。
ベットが左右に2つ並んでおり奥に窓があるシンプルな部屋だ。
まず荷を解いて、昼食を取ることにした。
焼きそばのようなもの(chiao meng)を食べた。
疲れていたこともありとても美味しく感じた。
その後シャワーを浴びることにした。
部屋に戻る途中に青年スタッフにWi-Fiのパスワードを尋ねた。
すると半笑いの表情で"すまない、ここにはインターネットはないんだ"と言われた。
完全に一本取られた。
シャワー事変
大田原さんが先にシャワーに入るのを待って次に私が入った。
大田原さんにシャンプーをお裾分けしていただき、使い切りタイプのシャンプー・タオルを片手に私は1階にあるシャワールームに向かった。
部屋の中に入った。
とにかく寒い。
凍え死んでしまいそうだ。
裸になってからシャワーをつけてお湯が出るのを待っていては死にかねないため、服を着た状態でシャワーの蛇口をひねりお湯が出るのを確認した。
服を脱ぎすぐさま熱いシャワーを頭から被った。
シャンプーを取り出し頭にかけ泡立てた。
頭の汚れが疲れと共に流れていくのを感じた。
そのままシャンプーで顔と体を洗い流そうとした次の瞬間、熱いシャワーがキンキンに冷えた水に変わったのだ。
ハッキリ言って死にそうだった。
すぐにシャワーの横に移動して冷水を避けた。
30秒ほど待つとお湯に戻った。
その30秒が私には1時間くらいに感じた。
泡を全て落とし、タオルを取り出してすぐさま服を着た。
急いで部屋に戻り布団を被った。そ
のまま夜ご飯の時間まで眠ることにした。
晩ご飯
目を覚ますと晩ご飯を食べる時間になっていて外は真っ暗、気温は体感で5,6度下がっているようだった。
宿に入るときに極力ご飯はこの宿で食べるように青年スタッフに念を押されていたが、私たちは同じパクディンの中で食堂を探すことにした。
食堂を探している途中、売店があったのでトイレットペーパーと歯ブラシを購入した。
売店のすぐ近くに ローカルな雰囲気の食堂があったので私たちは1日目の晩ご飯をここで食べることにした。
店内は非常に薄暗く目の前の大田原さんの顔を確認するのでやっとだった。メニューの中から私はネパールの定番料理・ダルバートを注文した。(ダルバートとは豆のスープ、丸いプレートに米・数種類の炒め物・漬物が並んでいるプレート料理)
何よりこのダルバートはおかわり自由なのだ。
自由というか腹がちぎれるまで食えという店員の無言の圧力を感じるほどの料理なのだ。そ
のためネパールのソウルフードと言っても過言ではない。
数分待って出てきたのは米にジャガイモの炒め物、漬物が並んだダルバートだ。
炒め物がスパイシーで米が進んだ。トレッキング1日目の晩飯を堪能した。
シェルパとの出会い
ダルバートを食べていると店内の端っこに座っていた男性が私たちに突然日本語で話しかけてきた。
会話を進めるとその男性がネパール人でありシェルパ(※シェルパとはヒマラヤ地域における山岳ガイドのこと。
シェルパ族という民族が山岳ガイドを生業にしてい る) であることが判明した。
そのシェルパはとても日本語が堪能だったため訳を尋ねると、日本人有名登山家・三浦雄一郎氏のガイドをしていたからだと言っていた。
1日目にとんでもない人に出会ってしまったのだ。
そのシェルパは私たちの歩くゴーキョまでの道のりをざっくり解説してくれた。
どうやら1番体力的にキツイのは次の日のパクディン-ナムチェバザール間の登りだということを教えてくれた。
食事を終え、シェルパに挨拶をして私たちは宿に戻った。
トレッキング中のトイレ事情
海外のトイレ同様ここでもトイレットペーパーを便器には直接流さないため、便器横にあるゴミ箱に捨てる。
先ほど売店でトイレットペーパーを購入したのは、ここではトイ レットペーパーはそれぞれが自分のものを使用するからだ。
日本の登山中も同様のルールが存在するため、特に苦労することもなかった。
編集長
宿に戻り布団で寝る支度を整えた。
横にいる大田原さんと1日を振り返りながら談笑していた。
ふと大田原さんの職業が気になったので尋ねた。
すると驚愕の返答が返ってきた。
”私はTarzanと言う雑誌で編集長をしていました"と言うのだ。
この旅で私は何度驚けばいいのだろうか。
あの有名雑誌の編集長が横にいるなど考えられなかった。
しかもこの空間には2人しかいない。
驚きつつも話を聞くと、Tarzanの前編集長で転職までのリフレッシュ休暇でネパールに来ているそうだ。
大田原さんへの興味が俄然湧いてきた。
その一方でこんなに近くにいる大田原さんが遥か遠くの存在にも思えた。
興奮冷めやまぬまま私は眠りについた。
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