見出し画像

映画『祇園囃子』溝口健二監督

映画『祇園囃子』1953年・日本/溝口健二 監督

祇園で働く芸妓・美代春(木暮実千代)のもとに、母を亡くしたばかりの少女・栄子(若尾文子)が舞妓志願にやってくる。やがて、1年間の舞妓修行を経て初めて店に出た栄子は、芸妓とそれを取り巻く人々の生態を目の当たりにしていく。

本作は川口松太郎の小説(『オール讀物』所載)を原作とし、依田義賢が脚色、溝口健二が監督した。

最初から最後まで見入ってしまう約80分の作品と言える。

花街特有の人間模様や世界そのもの、また、それに絡み合った男女関係の諸々も面白くないわけがない。主演の二人の女優の魅力は言うまでもなく、現代にはない年齢相応の女の色気があって、その魅力が半端ない。
女性も男性もだが、その年齢層特有の魅力というのが世間で知らず知らずに認識されていると思う。
本作では花街を下積から生き抜いてきた芸妓の美代春の大人の女性として、それに対して、その世界に飛び込んだばかりの幼さのある栄子の対比が明確に描かれている。

江戸の時代から芸妓という職業が存在し、現在にも継承されている。
歌舞伎役者という職業が男性にのみ許された世界ならば、芸妓は女性のみに強いられた芸の世界と言えるのかもしれない。
 
お茶屋の女将であるお君(浪花千栄子)が主演のふたりの女優と対峙すような形で描かれている。花街特有の置き屋やお茶屋、そして旦那という制度の説明はここでは割愛するが、お茶屋の女将の本性が浪花千栄子と本作の物語とも相まって、色濃く恐ろしく美代春と栄子の二人に迫る。なんでそんなに存在感あるんですか?って誇張ではなく訊きたくなる怖さがあった。それが本作には欠かせない要素となっていることは言うまでもない。

溝口健二の作品て、撮影方法や脚本も本当に研ぎ澄まされたものであるとわかるのだが、それさえ感じさせない“魅させる“  あるいは、“観させる” 力というものはどこから来ているのだろうかと、いつも考えてしまう。それがわからないから素晴らしいし、見る者からの絶大な信頼に繋がっているのではないかとわたしは思う。

筆者:北島李の


いいなと思ったら応援しよう!