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ジョン・レノンの不在を哀しむ時に、私たちが手にしているもの。

遅ればせながら、NHK BPで2022/3/8に放送された『アナザーストーリーズ 運命の分岐点/ジョン・レノン そして“イマジン”は名曲になった』を視聴しました。

この番組は、ある一つの出来事をいくつかの視点から解明する ”マルチアングルドキュメンタリー” です。
今回は、国家や宗教間の対立や憎悪の無意味さを歌うジョン・レノンの名曲「imagine / イマジン」を、世界を襲ったいくつかの事件と、それに関わった人たちの思いと共に読み解きます。

昨今では北京オリンピックでも使用される imagineですが、番組では、世界がジョンを失った悲劇から、チェコの裏通りにある”レノンウォール”から、そして、9.11のNYテロを通して、楽曲が如何にして育っていったのかについて迫っています。

どの視点もとても興味深く、数秒たりとも目が離せませんでしたが、現在の国際社会情勢的に “チェコの裏通りのレノンウォール” からの視点が特に印象に残りました。

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1968年、プラハの春。
検閲が事実上解除となり、聴く事が禁止されていたビートルズの音楽もチェコスロバキアへ堂々と入ってきました。

しかし、その後のワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻により、プラハの春は鎮圧されます。
更なる厳しい言論思想統制により、ビートルズ解散後ソロ活動を始めていたジョン・レノンの作品も、当然規制の対象となります。
若者たちは、西ドイツやルクセンブルクのラジオから、かすかに届くimagineを聴いていました。

英語が不得意なチェコの人たちは、自分たちなりに歌詞を聞き取り、その断片的な情報に彼らの願望を乗せ、"想像によって" ジョン・レノンの伝説が作られていきました。
私は、なぜ東側の国でジョンがこんなにも人気なのかと不思議に思っていましたが、不自由さが逆にジョンの人気を高める要因となったのでは、と語る"当時の若者”もいました。

裏通りに自然発生的に誕生した、ジョンの肖像や歌詞が描かれた “レノンウォール”。
そして、国家権力への不満を胸に、そこに集まってくる若者。
私は、「ジョンは音楽で若者と政治を繋いだんだな」と思い、かつてジョンが「自分にとって音楽はコミュニケーションだ」と言った言葉が、かなりの重量感を伴って思い出されました。

プラハで巻き起こる反体制デモに呼応し、「ジョンだったらどうする?」と自ら考え、ストライキをする田舎町の学生に勇気を与えたimagine.
歌われている「平和」とか「無宗教で幸せに」という言葉は、皮肉にも共産党が発するプロパガンダと同じ内容でしたが、imagineには「世界を変えたい」という強い思いがあった、と当時の学生が語るのが印象的でした。

不完全な英語を操る彼らにとって、imagine は平和や愛、自由のすべてを表す曲でした。
でもそれは、私たち日本人にとっても、同じような感覚かもしれません。

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以前、「2016年にウクライナのある村で、ウラジミール・レーニンに因んだ “レーニン通り”が、”レノン通り” に変更された」というニュースを見ました。
”Lenin” から ”Lennon” へ。
ビートルズ結成と、平和活動家としてのジョン・レノンの功績に敬意を表し、知事の裁量で決定したという内容でした。

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レノンウォールに、レノン通り。
平和な国に住んでいる自分には想像できていませんでしたが、今回この番組を視聴することで、そこには社会主義国で自由を求めた人たちの悲願や未来への希望が込められていたんだと、その重みを再認識することができました。

楽曲の発表当時(1971年)、「ジョンは、複雑な問題に随分単純な答えを出した」と批判的な声をあげる批評家もいたと言います。
でもだからこそ、世界中で多くの人が、各々自由にその解釈を「想像しうる」曲になったのではないかとも思います。

例えば、ニール・ヤング。
彼は、9.11のテロの後、犠牲者追悼のためのチャリティー番組でimagineをカバーしました。
そしてその時、オリジナルの歌詞を少し変えて歌っています。

Imagine no possessions, 
I wonder if you can,

ジョン・レノン版 "Imagine"

を、

Imagine no possessions, 
I wonder if I can,

ニール・ヤング版 "Imagine"

と。

彼は、この直前の「何も持たないということ」だけではなく、imagineで歌われている全てのこと、つまり「世界中のみんながきょうだいで、全てをシェアして平和に生きていく仲間なんだ」ということに対し、「残忍なテロを受けた直後、自分が想像できるかどうか分からない」という素直な心情を吐露したのではないかと思います。

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ビロード革命の後、共産党体制の政権が崩壊した時、そこにジョン・レノンはいませんでした。
彼は暴力によって命を奪われていたから。
「ジョンの不在をこの時ほど悲しく思ったことはなかった」という、チェコの男性の言葉が心臓をえぐります。

しかし、世界中の人たちが同じようにジョンの不在を哀しむ時、それは皮肉にも、我々が自由や平和を手にしているということで、ジョンはきっと「じゃあ良かったじゃないか」と言ってくれるような気がするのです。


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