夢に溺れる(ある患者の言葉)
どちらかと言えば、それは夢というより記憶に近いものだ。
私は軽トラックを運転して、山里を走っている。この街に越してきてからというもの、連日こうだ。
想い人に会う。あの数日間は、そんなことを繰り返していた。
胸を弾ませ、彼女に会うためにいそいそと同じ道を通い続ける。逢瀬は何らかの理由で途切れてしまうのだが、それはめくるめく楽しい日々だった。
顔を想い出せない。花壇。洋風の石畳。緩やかな坂道を降りていくと川原の砂利。しゃがんでいる彼女。小さな背中だけしか想い出せない。
私は、これを夢で視ているのではなく、眠りの中で想い起こしている。出来事というよりは、そのときの気持ちを。
回想はいつのまにか、新しい物語にすり替わり、夢になる。
夢と本当にあったことの境目。それがひどく曖昧になる時間帯。
いつもは夢の記憶など無い。忘れている。
少しまどろみながら、ものを想うとき、リアルに蘇ってきて、それが本当にあったことなのか判別がつかなくなる。ずっと一緒にいたのに、なぜ忘れていたのか。夢の中にしかいない人のことが、すごく懐かしくなる。
さっきまで、そんな夢の中にいた。しかしあれは悪夢のたぐいにちがいない。強い恐怖はないが、ずっと助けを求めるような気持ちで目醒めを請うていたから。
実際に何度か目を醒ましながら、また沼に引きずりこまれ、別の夢を視ていた。
ああ、残念だ。こうして筆を運んでいたら、あれは現実ではなかったとの認識が支配的になった。
あんなにリアルな臨場感をもって視えていたのに、あの気持ちも今は掠れてよく想い出せない。
言葉は、琥珀だ。夢は半透明な樹脂の中で動かない太古の昆虫。深い飴色の羊水に眠る嬰児。言葉が、私の体験を固めてを違うものにしてしまう。
此岸から見つめるぼやけた彼岸。色が抜けた、背景の暗いポラロイド写真。褪せた記憶のスーベニア。
夢の中は、視野狭窄している。醒めているときとは、違うものの見え方。フォーカスが極端に絞られている。そのくせ、背後で何が起ころうとしているかまで、分かっているのだ。
認識できる感覚のギャップが、現実での記憶ではないと知らせてくる。
記憶の形じたいを、醒めた脳はうまく再生しない。
辻褄の合わない不完全な記憶。痕跡の無い思い出。あれが現実であるはずはない。
本当だろうか。いまこの記憶も、数年後、あるいは数日後に想い返したら、夢のような視え方をするではないか。
だったらあれが夢だったなんて、どうして分かるんだろう。
これが現実だなんて、誰に確認すればいいんだろう。
私は明日の自分に言葉を遺すしか出来ない。言葉に遺せなかった情報まで想い出せるトリガーとして。言葉にならなかった想いに立ち帰るアンカーとして
(本人の言葉を、意図を汲んで、若干修正しています)
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