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結婚できない妹は、深夜、母の携帯から兄に電話する。

※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

午前1時過ぎ。寝入りばなに着信。ワンコールで切れた。急に目が覚めたから心臓がばくばく言っている。母からだ。
ヒロキは母にかけ直すが、出ない。
今年喜寿を迎えるヒロキの母は、独り暮らしをしている。昨年末に夜道で転倒し、右手首を骨折した。全身麻酔での手術と2ヶ月の入院を経て、現在はボルトが埋め込まれた右手を工夫して使いながら生活している。退院してから2ヶ月。何事もなく暮らしてきたが、何かあったのだろうか。寝起きの頭で考える。悪いことを考えだすと、きりがない。
「どうした? 大丈夫?」
LINEを送ってみるが、未読。もう一度電話をかけたが、やはり出ない。万一のことがあってからでは遅い。今なら道路も空いているから、車を走らせれば一時間もせずに着くだろう。
ジャケットを着込んで車のキーを手にしたとき、母から電話がかかってきた。今度はワンコールではない。

「もしもし」
「あんた、どうしたんや、こんな時間に」
「いや、母さんから電話があったから、かけたんやで」
しばらく沈黙した後、ヒロキの母は何かに気づいたように「ああ」と声をあげ、嘆息した。同時に背後で酔っ払った女が奇声を上げた。
それを聞いて、ヒロキも状況をおおむね理解する。
「とにかく、大丈夫やから」とだけ言って、母はブツリと電話を切った。

心中を察し「母さんが無事であれば、いいです。 もう少しで出発するところでした(笑)」とLINEを送り、再び床についた。
五分後、寝入ろうとしていたヒロキは再び電話にたたき起こされる。母だ。「あのな、いまユキミが来ててな」
母は申し訳なさそうに言う。ユキミは、ヒロキの妹である。
「なんかな、お兄ちゃんをからかってやろうと思って、電話かけたみたい。ごめんな」
「ああ、そんなとこやろうと思ったよ。さっき声が聞こえたから。おかんもはよ寝えや」
電話の背後、ユキミが大声で「出発するか? 出発するか? どうすんねん、あぁ~~~?」と叫んでいる。母の住まいは大阪の住宅地。深夜1時にそんな声を出すことの意味は、大人であれば分かるはずだが、ユキミは自分を抑えられないのだ。
ヒロキは母親に「大丈夫、大丈夫」と言ってやることしかできない。
「うん、うん、わかった。ありがとう。ごめんな」
そう言って受話器を置いたが、ヒロキは母の夜が長くなるであろうことを思い、憂鬱な気持ちになった。

「ユキミに、何かあったのだろうか」とヒロキは思う。ユキミは実家から電車で一時間ほどのところに住んでいる。しばらく考え、「いや、たぶん何も無いんや」と答えを出した。
母が眠たい目をこすりながら、酔っ払いのくだまきに付き合わされているところを想像して怒りが沸いてくる。が、ユキミの身の上を思うと、腹の中で煮えくりかえっていたものは途端に冷え込んで、重く硬くどこまでも昏く沈殿する、鉄の塊になるのだった。
ユキミは実の妹にして、ヒロキが実際に知る中で「最も」といえるくらい、哀れな女だ。境遇だけを言えば、もっと悲惨な人間はいる。しかし肉親だからかもしれないが、ユキミほどリアルな悲哀を感じさせる女はいなかった。

ユキミは四一歳。結婚歴の無い、正真正銘の独身である。職業はミュージシャン。を名乗る、スーパーのレジ打ち。ありていに言えばパートのおばちゃんだ。
コロナ禍の前は毎月行っていたライブも、いまや数ヶ月に一度になっている。音楽活動からの収入は無い。ライブハウスから支給されたチケットを販売した金は、交通費などに消える。
うだつの上がらない生活。「売れない」を冠してもミュージシャンを名乗るにはおこがましい境遇。それらを個性(〓キャラクター)として肯定するために、ユキミは酒を飲んではくだを巻いて露悪的に自分を卑下する。下ネタを開陳し、女を捨てているかのように振る舞ってみせる。
実のところ、サバサバしているのに色気があってファッショナブルに才気走るぶっちゃけトークが得意な姉御肌の芸能人(例:YOU、SILVA、山口智子など)をすこし庶民的にした感じを意識しているが、宿命的に恥じらいが欠落した振る舞いは、まわりからみれば正真正銘「ただのオッサン」だった。

友達はみな、結婚して家庭を作り、子を産んだ。二十代の頃は「自分には音楽がある」と気丈に祝福していたが、三十代も半ばを過ぎると、祝えなくなってきた。他人が幸せになったぶんだけ、自分を不幸だと思う。それが親しい人間であれば、なおさらだ。

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