四万十川ウルトラマラソン完走体験記②
(→①より)
2010年、Oさんという100㎞に挑む50代のランナーのご家族と知り合った。
Oさんも、ゴールテープを切っていた。
レース後、ご家族と一緒に食事をさせてもらったがやはり「完走」の満足感というものは格別に感じた。
自分よりも上の年齢の人が、100㎞を走り切る。
「次は俺も走り切りたい」
出会いに感謝しつつ、悔しさの中、決意した。
しかしそのリベンジの機会は中々訪れなかった。
当時の四万十川ウルトラマラソンは、抽選式でエントリーしても中々当たらないのだ。
2011年~2013年と3年連続で出走は叶わず。
30歳。60㎞に申し込みを変更し、抽選に当たり久しぶりに出走できることになった。
60㎞は、100㎞の部の40㎞地点。
つまり、峠を完全に超えた後の地点。100㎞のコースを途中からスタートする平坦なコースである。
前回2010年には峠越えをした上で、56.5㎞地点までは到達できていたので60㎞を走ることは私にとってそこまで難ではなかった。
前回、走り切れなかった地点の景色を順調に走っていく。
達成感というより、「ああ。100㎞走り切る時にはこんな景色になるのか」という感覚だった。
沿道には80㎞(60㎞の部40㎞)といった表記の標識がある。
どんどん距離を刻んでいくごとに、「やはり100㎞で最初からここまで走りたい」という思いが出てきた。
所要7時間20分。比較的制限時間からも余裕を持ってゴールはできた。
フルマラソンより長い距離を走っているし、普通に考えたら評価しても良いのかもしれない。
しかし、自分の中でそこまでの達成感はなかった。
やはり、あの序盤の堂が森を超えずに走ったのは大きなハンディキャップをもらっているような気がしたのだ。
「今度こそ100㎞の部で完走したい!」
その気持ちが噴出してくる。
100㎞を走り切って、ゴールテープを切る人の姿。
前回入れなかった80㎞地点、90㎞地点など後半の区間。
ボロボロになりながらも自分の限界と向き合って必死に前に前に進む100㎞ランナーの姿。
まるでのたうち回るようにして、体を前に進める人。
100㎞と60㎞でゼッケンの色は異なり、100㎞ランナーはすぐに判別できる。
「ああ。これが100㎞の部の後半なんだ。」
楽々40㎞後のスタートから走っている私の目からは、眩しく思えた。
自分の全てを出し尽くさないと、100㎞は走り切れない。
「やっぱり俺もこれをやってみたい。」
そんな決意が強くなった、2014年の60㎞の出走だった。
次の私の100㎞の挑戦は2016年 32歳の時だった。
当日は曇で、途中から雨が降ってくる天候だった。
2016年は仕事も上手くいっておらず、2010年ほどではないがそこまで走り込みが出来ずに迎えた大会だった。
前回の経験から、最初から飛ばすことはせずスロースタートで入る。
かっこよく言えばそうなるが、実際は体力に余裕がなかった。
2010年と異なり、大きく脚を攣ることはなかったが、膝や内転筋にじわじわダメージが来るコンディション。
中々ペースがつかめない状況だった。
前回同様に、50㎞を超えたころからしんどくなり、歩きが混じってくる。
前回引っかかった第2関門(56.5㎞)、その先の第3関門(61.4㎞)はクリア。
そこから雨が本格的に降ってくる。冷たい雨だった。
コースの名所の2つ目の68㎞付近の岩間沈下橋を通過することはできた。
だましだまし歩いたり、走ったりしていたが第4関門(71.3㎞)で制限時間に引っ掛かってしまう。
また僕に、DNF(Didn't Finish)が刻まれる。
雨に濡れた体は、立ち止まって一気に冷えていく。
筋肉痛でボロボロになった棒のような脚と、雨に濡れた体で収容バスに乗り込む。
走り終えた直後は、2010年よりは遠くに来ることができたという一定の満足感はあった。
バスはしばらくして、他のリタイア者も乗せて出発する。
70㎞を超える道のりを走った20~30名の参加者の体の熱気で、バスの窓は白く曇る。
サロンパスのツンとした匂いがバスの中に漂う。
窓側の席に座った私は、まどの水滴を手で拭って外を見る。
雨の中懸命にゴールに向かって、駆ける人が見える。
あと30㎞足りなかった。その悔しさが滲み出てくる。
雨でも、しんどくても前に進む第4関門より先に進んだ人たち。
路面のぬかるむ中、ゴールテープを切る人たち。
「俺もそうなりたい。」悔しさが生じ、失意の中で想いが滲んだ。
あらためて腹の底からそう思った。
次の100㎞への挑戦は2019年まで離れることになる。
四万十ウルトラマラソンには、その1年前の2018年 33歳の時に60㎞で出場した。
2度の失敗で自信を失い、2014年に60㎞で完走した記録を更新する方向で取り組もうと思い
60㎞の部にエントリーしたのである。
とはいえ、どこか氣持ちとして逃げている部分はあったように思う。
新潟に赴任している時代。
比較的時間に余裕はあり、終業後コンスタントにランニングをすることはできていた。
事前に35㎞走も実施。
住んでいた燕市の越後平野を走っており、走り込みの量には自信を持って臨んだ大会であった。
だが、それとは裏腹にレースの結果は低調で、2014年に走った60㎞の7時間20分より40分近く遅い7時間59分。
最後の20㎞も3時間近く掛かるという散々なレース内容だった。
おそらく、走りこんだといってもほとんど起伏がないコースだったことが原因だと思った。
その上で、練習開始時期が遅かったのと走り込みのピークを持ってくる時期を間違えたのだろう。
四万十川ウルトラマラソンはよく「20㎞付近の堂が森以降はコース起伏がない」と言われる。
しかし、よく見ると高さ100mの間でのアップダウンは繰り返しある。
実はそう「平坦」とも言えないのである。
このレースは、ほとんど何も記憶が残っていない。
それだけ、私の中でも「何も得るものがなかった」レースだったと思う。
ラスト20㎞は足が止まり、後からやってくる100㎞ランナーに次々と追い抜かれる。
甘ったれてトロトロ走る自分が腹正しかった。
相変わらず、100㎞を走破しゴールテープを切る人たちの顔は充実感にあふれていた。
それがやけにその時は眩しすぎるように思えた。
逃げに回った自分の心が、えぐられているように感じた。(→続く)