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四万十川ウルトラマラソン完走体験記①

2024年10月20日 私は四万十川ウルトラマラソン100㎞を制限時間内に完走することができた。
4度目の挑戦にして、やっとである。
2010年。26歳の時に初めて挑戦してから14年の時が経っていた。

マラソンや長距離を趣味とする人の、一つの傾向として「寡黙な人」が多いかもしれないと私は思う。
ウルトラマラソンという特殊な体験に挑んでいるはずなのに、走っている際に見たことや、感情を詳らかに語る人は少ないのではないか。
ウルトラマラソンの完走体験記をWEBで探しても、中々出てこない。

だからこそ、完走に至るまでの経緯を言葉にしてみようと思ったのである。

私が最初に四万十川ウルトラマラソンに出走したのは2010年である。
当時26歳。
四万十川ウルトラマラソンは、毎年10月中旬の日曜日に開催される大会。
100㎞の部と、60㎞の部があり高知県西部の最後の清流といわれる四万十川流域を走るコースだ。


大学生のころ私は陸上サークルに入っていた。
そのサークルのメンバーで、このレースに挑戦する人は多かった。
しかし、学生時代の私は全く興味はなかった。
というより手が出なかったという方が正確なのかもしれない。

学生時代の自分にとり、レース代や、高知までの遠征費は高額だったし、何より100㎞という距離が途方もないものにしか思えなかった。
ハーフマラソン(約21㎞)は、走ったことがあるがそれでもしんどかった。
その5倍近くになる距離を自分が走れるなんてできっこないと感じていたのだ。
100㎞を完走したサークルメンバーの話を聞いていると、眩しいと思ったし、同じ人間ではないとさえ感じた。

そんな自分が26歳の時に、敬遠していた四万十川ウルトラマラソン100㎞にエントリーした。
当時自分は仕事で思い悩んでいて、なおかつ彼女ができたタイミングだった。
彼女が出来て日常が楽しくなる半面、目の前に広がる平日の暗い世界は永遠に続くような闇に思えた。

自分自身を男性として頼りないと思い、武道を習い始めたり「何か自分を変えたい」と思っていた時期だった。
100㎞に挑戦し、やり切れば何かが変わるのでは。
そう思い、エントリーしたことをなんとなく覚えている。

しかし、当時はフルマラソンさえ完走した経験がない。
練習方法もわからない。
その中で、四万十川ウルトラマラソン。しかも、60㎞の部も飛び越えて、100㎞にエントリーする。
今思っても無謀なチャレンジだった。

平日の鬱屈した気持ちの中で、今から思えばまともな練習・準備すらできないままレース当日を迎えた。
何もかもが初めての大会。
秋も深まりつつある、夜明けの暗い時間帯からレースは始まる。

四万十川ウルトラマラソン100㎞の部は、序盤の20㎞で堂が森といわれる標高600mの峠を越える。
これが、コースの最大の難所と称されている。

自分は大阪市に住んでおり、練習のコースといえば専ら淀川河川敷の平坦な道。
初めて体験する、心臓破りの坂。
それでも、学生時代の体力の貯金と20代が持つ固有のフィジカルで何とか20㎞頂上までの山を登りきる。
息は切れ、生半可な準備しかしていない脚は悲鳴を上げる。

堂が森の頂上を超えると、約10㎞の下りが続く。
今の私からすると、コースの最大の難所は頂上までの上り坂ではなく、頂上直後の長い下り坂だと思う。

坂を下る際、脚には登りの3倍とも言われる負荷がかかる。
上り坂を超えた安堵から、また上り坂でペースダウンした焦りから、スピードの出る下りでペースを上げようとする。
これが落とし穴になる。調子に乗って下ると、脚にはとてつもないダメージがかかり、失速する。

当時の私にこんな計算はできず、やっと出会った下り坂に喜び、ストライドを上げ勢いよく駆け降りる。
23㎞、24㎞・・・勢いよく加速してペースを上げていく。

30㎞地点くらいまで来た頃だったろうか。下りも緩やかになってきたころ脚に激痛が走る。
「攣った!」
攣っただけではなく、膝の関節にも痛みが。
あまりの痛さに、脚をひきずるようにしか前に進めなくなってしまう。
急ブレーキがかかったような感覚だ。

だましだまし前に進むが、痛みが消えることはない。

36.6㎞の第一関門地点。
後から来た女性ランナーが、見かねて消炎鎮痛剤を貸してくれる。
しばらく休憩してから走り出す。
この地点まで来ると、雄大な四万十川がコース横に広がる。
また走り出して、温まってきたからか痛みはましになってくる。
38㎞、40㎞と走りフルマラソンの42.195㎞をクリア。
このあたりのコースは比較的平坦なこともあり、ペースに乗って走る。
何となく気持ちよくなってきて、48㎞近辺では1㎞4分台と調子に乗って飛ばす。
いわゆるランナーズハイというやつだろうか。初めて経験するものだった。

しかし、50㎞超えたあたりからガクンと反動が出る。
膝の痛み、足裏のマメの痛みで全く脚が前に出ない。
それだけではなく、肩が痛い。
走ると腕を振るが、走ったこともない長距離。
体の力みもあったのだろう。
肩が攣りそうなくらい痛く、腕も振れないくらいだった。

走れなくなり、歩きと走りを繰り返す。
次第に歩く配分が多くなってくる。
日差しも強くなり、体力を奪う。

コースで有名な一つ目の沈下橋(半家沈下橋)に何とか到達する。
絶景なのだが、楽しむ余裕はなくなっていた。

「走らなきゃ」
そう思うが、半家沈下橋の直後の峠越えに心が萎える。
急な上り坂はもとより、直後の急な下り坂に膝がついてこない。

「もう限界!」
坂の下の56.5㎞地点 第2関門でリタイアをした。

DNF(=Didn't Finish)が刻まれた。

収容バスに乗り、ゴール地点に向かう。
車窓にはゴールに向かってひた走る幾人ものランナーが見える。
じわりじわりと悔しさが込み上げてくる。

ゴール地点の中村高校。
着替えて外に出ると、次々とランナーが帰ってくる。
達成感に満ちてゴールテープを切る人たちの表情は眩しかった。
「かっこいい」
そして、走れなかった自分に対して悔しさが滲み出てくる。

大会の中学生、高校生の応援。沿道のサポートの雰囲気は非常に良かった。
それだけに、このコースを最後まで走り切りたい。
そう思った。

ウルトラマラソンで宿泊した宿で、Oさんという100㎞に挑む50代のランナーのご家族と知り合った。
Oさんも、ゴールテープを切っていた。
レース後、ご家族と一緒に食事をさせてもらったがやはり「完走」の満足感というものは格別に感じた。
自分よりも上の年齢の人が、100㎞を走り切る。
「次は俺も走り切りたい」
出会いに感謝しつつ、悔しさの中、決意した。

これが1回目のレースであった。
(→続く)

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