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へっぽこぴーりーまん書紀〜2社目編 東京編vol.14

操縦不能状態で

ボクはその後、糸の切れた凧のような気分で仕事をしていた。
研修を受けていたが、やはり仕事面の向上。実績面の向上はできていなかった。
変われない。変わらない。
むしろ研修で勢いよく出てくるアイデアと、凪(なぎ)のように変わらない現実とのギャップにストレスが溜まっていた。

足利との面談


12月頃。上司との足利との定例面談があった。異動の意思の確認。日頃の仕事の悩みなどを話し合う。
本田の仕打ちへの不満などを打ち明けたあと、異動の意向を聞かれる。
契約が全国転勤職だから、「異動はムリです」と答えることはない。
当初単身赴任だったが、一年前育休を機に妻が引っ越して来て来春より復職予定。
更には、子供の保育園も決定していた。
現実的に今の時点の異動は厳しいと、事情を伝えた上で懇願した。

その上で、他部署への異動の意向を聞かれた。
正直、今の営業4課での仕事のモチベーションを保つのは無理があった。
ボクの会社は直販という部門を立ち上げて、ビジネスに乗り出していた。
直販とは文字通り、ショッピングモールなどに出店し直接ものを売るビジネスだ。
そこにかなり興味があった。店員教育などに学んでいるコーチングなどが活かせると思ったし、直に顧客と接点を持てるのは面白そうだと思ったのだ。
あとは、総務人事など。より人々が働きやすい環境を整えるなど。
視点を変えて、人と関わることができる意味で直販課や総務人事には興味があると答えた。
「わかった」と足利。

ボクが在席していたのは東京本社。会社の最大拠点だ。
法人営業部とは異なる別の部署なら、もしかすると、ボクはやり直せるかもしれない。
そうボクは、まだ少し思っていた。

1月末〜突然の辞令

年が明けた1月末。ある朝ボクは足利に別室に呼ばれた。
「辞令が出た」
どこですか?とボクが返す。
「新潟だ。」と足利がやや気まずそうに答えた。

動揺した。今の状況で異動は難しいと直近の面談で言ったのに…怒りと焦りと戸惑いで大きくボクの心は動揺した。 

新潟は一部の生産機能と、物流センター機能、管理部門があり営業部隊はいないことは知っていた。

「新潟営業所を作るということですか?」ボクが尋ねる。

「いや。違う。品質管理部門に行ってもらう。」と足利。

ヒンシツカンリブモン!?!?
ニーガタ!?!?!?

基本的に営業から管理部門。なかでも新潟への異動の前例は聞いたことがなかった。
更には営業と品質管理部門(以下品管と記す)の繋がりはほぼなかった。
営業トップと品管トップが仲が良いなどの事情もない。
そもそも、品管とは何をしている部署なのかすらボクはわからなかった。

ヒンカン!?

ボクは新潟に縁もゆかりも無い。
更に4大文系学部卒であり、シグマやら標準公差やらの数的思考も得意ではなかった。無論、工学的な知識も持ち合わせていない。

足利との面談時。
部署希望のときにボクは
「新潟(の部署)だけは無理ですねー。」と明言していた。品管など一字一句出していない。

「品管っていったい何をするんですか?営業とどう繋がりがあるんですか?配属させる狙いは何なんですか?」ボクは問うた。

足利は明確に答えられない。

当日は、回答を控えて持ち帰ることとした。
とにかく家族と相談しなければならない。
ボクは全身が緊張し、大きく動揺していた。呼吸は上ずり、力み、チクチク刺すような鼓動を感じた。

落ち着きを取り戻すことが難しかった。

「左遷?」そんな感情が大きく自分の中に渦巻いていた。

せめてもの抵抗

帰宅して妻に報告すると、妻は大きな不満を口にした。
ボクの東京異動のため、妻自身も東京異動の配属願いを出して通ったところだった。
単身赴任を解消し、一緒に住み始めて1年程度の出来事だった。育休から復職間近。子供が保育園にも入所が内定した矢先の出来事だったからだ。

・新潟と東京は遠く通勤は不可能
→妻はフルタイムで新卒からキャリアを積み上げている専門職。退職し新潟でへっぽこぴーりーまんのボクに付いてくるのはデメリットしかない。

→そうなると単身赴任になるが、フルタイムの妻と2歳の幼子が残される、ワンオペレーション育児。妻の負荷が高くなる。

新潟と言っても比較的都会の新潟市近辺でなく、一帯に田園が広がる中越地区。新幹線の駅こそあれ、言葉を選ばずに言うと、ど田舎だった。
職場はクルマでないと通えない地区。赴任地周辺の交通の便も全般的に悪くクルマの購入が必須。

昨年暮れの足利との面談で、家庭事情は報告しており「嫌がらせ人事ではないのか」「異動をさせるなら会社意図、期間などを説明して欲しい」旨のメールを妻と作成して、足利および支店長に送付することとした。せめてもの抵抗として。

新潟に異動することで、昇給や昇進の保証もなかった。
(支店長はちなみに、その年から僕の赴任時の大阪で苦手だった東野が就任していた。)

支店長と足利との面談〜異動へ

何度か足利と面談したが、こちらの望む回答は出てこない。
最終的に支店長の東野も出て三者面談をすることになった。
会社側の見解は変わらず
「全国職だから異動辞令は拒否できない」
「拒否するのなら、最悪懲戒などもある」

といった原則論の繰り返し。心の全くこもっていない内容だった。

とはいえ辞令を拒否するにしても、ボクは転職活動もしておらず、辞めたとして次のあても全くない。
現実的にボクは辞令を受け、新潟に赴任するしかなかった。
渋々辞令を受けることになった。

足利からの言葉

足利は基本的に、組織の建前に従い、上と戦うことのない「ザ・昭和のサラリーマン」だった。
しかし、最後の最後東野も交えた面談のあと、2人の面談時間を作ってくれた。
ほのめかしレベルではあるが、異動のニュアンスなどを伝えてくれた。
(なぜ品管になったのかは、最後まで説明してくれなかったが。)

・この異動は片道切符。ほぼ営業に戻ることはない。
・期間は決まっていない。ずっと新潟に留まる可能性もある。
・関西での顧客とのトラブルに続き、東京でも顧客トラブルを起こしたことが決定打。
・へっぽこぴーは被害者妄想が強く、組織には不適合だと判断された。
(本田との一件。以下参照)

これまで書いてきた通りで、ボクは違反切符の蓄積で免停になった状態だった。

この時点で知らされるまでに、危機感が薄く、累積に気付かなかったのはある。

東京に異動する前のことは考えたくなく、自分の中で勝手に「ノーカウント」にしていたが会社の方では異動前のトラブルもフルカウントしていた。

更にはミスカウントがボクの予想よりシビアにとられていた。
ボクの予想・見積もりが甘かったの一言だ。もっと悲観的に取り組むべきだったと思ったが手遅れだった。

ボクは、とうとう「営業失格」の烙印を押された。
新卒から10年。曲りなりにずっと携わってきた営業職から外れることとなった。


僕を大事に抱きしめてくれる人が
いろんなこと言っては通り過ぎて行く

Too many people 耳を塞ぎたくなる
Too many people 僕なりの言葉で語らせてくれ

何度振りほどいても離れない危険
伝言ゲームで広がってゆく世間

もっと床に這いつくばれば喜ばれたのか 真実の顔は誰の元へ転がるのか

ASKA Too many people


(次回に続きます)





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