終わりの会とコロナウイルス

小学校のとき、「終わりの会」というものがあった。一日の授業がすべて終わったあとに行われる「終礼」その会のとき、「良かったことや悪かったことはありませんか?ある人は手を挙げて発言してください」という問い掛けを日直が行うことになっていた。

大体良かったことと、悪かったことの比率は2対8。「〇〇君にイタズラをされた。」「掃除をサボった」「悪口を言われた」と名指しで誰かが批判される流れになることが多かった。

改めて不思議な話だ。楽しく遊んだことや、おしゃべりしたことも沢山あるはずなのに。一日の8割以上は、楽しい学校生活なのに。どうして悲劇ばかりが語られる。しょうもない時間だなと思っていた。反面その悲劇を好む私含め、周りの空気も感じていて。すごく矛盾を感じていた。

コロナウイルスの一連の件でも、ヤフーコメントは文句の嵐だし、政治や景気対策にも文句の嵐。会社や世の中にも文句文句。これらのことを見ていると、「終わりの会みたいやな」と思う。

人の脳はサルから進化して発達した理性をつかさどる大脳新皮質(理性)と、サル時代からの旧皮質(本能)にわかれる。やはり本能の方が理性より強い。本能には生存本能があり、危険を察知するため警戒する動きなどをつかさどる。

例えば、火事だとおもったら逃げる。危険な目をした場所には近寄らない。など。

放っておくと旧皮質が強く働き、生存するための習性として、人間は物事を疑ったりネガティブな面にスポットライトを当てる、ある種悲劇好きな一面があるのだと思う。

悲劇のニュースをワイドショーで流すと視聴率が高くなる。刺激的な見出しの週刊誌が売れる。悲しいことに。

とはいえ、地震などの災害ならまだしも、旧皮質を働かせて悲劇的になることのメリットは現代ではほぼ無い。

コロナウイルスでも過剰に悲劇的な受け止めで、景気は後退し、倒産は増え、良いことなど一つもない。

コロナウイルスでも交通網も動いているし、Amazonで注文したらものも届く。会社を休んでる人もいない。3食食べ物も食べられる。

一日を振り返ると、良いことや恵まれていることがほとんどなのでは無いだろうか?

悪いことだって人間には脳で考え、話し解決する想像力。コミュニケーション能力を持っている。

冒頭の終わりの会。「悪かった事はなんですか?」の後に、「どうなったらよかったと思いますか?」「発言しているあなた、そして周りの私達には何ができるか?」の質問が続いてあったとしたらどうだったろう?悪かったことを解決するための話し合い。行動表明の場に「終わりの会」は変わっていただろう。

「本当はどうなったらよかったと思いますか?」「これからどうしたい(どうなってほしい)ですか?」「発言したあなた、そして周りの私達には何ができるか?」

これを質問として考え行動できるのが、大脳新皮質を与えられた。人間として与えられた私達の役割だろう。

もう、「終わりの会」のような世の中を作るのに加担するのはやめにしないか。

今、そう声を大にしていいたい。

#終わりの会 #コロナウイルス #ヤフコメ  




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?