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エジプトが生んだ歌手ダリダ、そのドラマチックな人生③~ ミッテラン大統領との逢瀬まで
ダリダ生誕86周年(2019/1/17)の時のGoogle。感動しちゃいました。
↑死後もダリダの歌はアレンジ/リミックス/カバーされ続けています。これはGitano Gitano (aghani aghani)スペイン語パート: Sebastian Abaldonato)
ミッテラン大統領が死去した。
1995年5月17日、79歳だった。
エジプトの『アルハラム』新聞の一面にもその記事は掲載された。
日本でも大きく取り扱われたと思うが、エジプトにおけるミッテラン大統領死亡ニュースは、それはもうセンセーショナルだった。
フランスとエジプトの強い関係(ナポレオン・ボナパルトのエジプト支配(遠征)、フランスによるスエズ運河建設、英仏共同エジプト統治など)は情報として知っていたが、
エジプト人たち誰もが、
タクシー運転手もアラビア語の先生も、そして旅行会社勤務のスタッフたちもディスコ常連のチャラ男たちも、誰もかれもミッテラン大統領の死亡を口にしたのには驚いた。
また、どのメディアもまるで祖国エジプトの大統領が死去したかのような最大規模の扱いだった。
新聞によると、葬儀には妻のダニエルと30年間の愛人アンヌ、そして正妻の子供と愛人との間に作った子供も棺に近い位置に参列させたという。
正妻は夫の愛人たちの存在を知っていたので、彼の遺言書とおり、葬儀にアンヌらも呼んだと書いてあった。
「愛人たち? 何人いたのかな」
私がそう首を傾げると、アラビア語クラスのフランス人たちは
「少なくとも"メイン"の愛人は二人はいたんだよ」。
「へえ。不思議じゃないけど、愛人二人ならじゃあどうしてもうひとりは来なかったのかな」
「だって来れないもん。もう死んでいるからね」
「ちなみにどういう女性だったの」
「ダリダ」
「えっ?」
「みんな知っているよ。シラクの愛人は日本人のデビ・スカルノだろ、ミッテランの愛人はエジプト人のあのダリダさ」。
....!
またフランス人たちめ、いい加減なことを言っているなと思ったが、
2007年に、当時の事情をよく知るフランス人女性が、ダリダの暴露本 (Dalida Tu m'appelaispetite soeur "ダリダ、あなたは私を妹と呼んでいた" Jacqueline Pitchal著)を出し、
「ダリダはミッテランの愛人だったことを打ち明けていた」
と書いた。
しかもダリダの個人事務所の社長兼マネージャーを務めていた実の弟、オーランドもそれを肯定するような"匂わせ"もしている。
↑↓ダリダの弟
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ところで、ダリダは外国でもっとも売れたフランス人歌手のひとりだった。(ルシアン・モーリスとの短い結婚の時に、フランス国籍を取得済)
その証拠に、90ヵ国でのシングルヒットチャートで一位に輝いている。
しかもこの数にはソ連と東欧諸国は一切カウントされていない。何故ならそれらの国ではオリコンチャートが存在していなかったからだ。
それでもチェコスロバキアとソ連のブラックマーケットでは、ダリダのレコード/カセットテープがよく売れていたのは、その後語り継がれており、
冷戦時代にもかかわらず、彼女はそのチェコスロバキア、ソ連、ポーランド、ルーマニアでもライヴを行っている。
ダリダは南米大陸でも成功し、アルゼンチンのチャートでは13のシングル、ブラジルで2つ、メキシコで1つのシングルが一位に輝き、
日本では二曲が一位になり、そしてカナダのケベックでは"最も売れたフランス語を話すアーティストの3位"に入っている。
ケベックでのダリダの人気はとりわけ大きく、1975年には「最も人気のある女性」にジャクリーン・ケネディと同点一位で選ばれたほどだ。
中東で人気も絶大で、それらのどこの国でも
「中近東の星、我々のDIVA」と讃えられていた。
エジプトはヒットチャートがやはりないので数字は言えないが、ダリダを歌えないエジプト人なんぞいないんじゃないかというぐらい空前の人気で、
イスラエルではシングル一位が二曲、トルコでは12曲だ。
さらに、1981年に彼女は世界中で販売された8500万枚のアルバムのおかげで歴史上最初のダイヤモンドディスクを授与され、
レジオンドヌール勲章の司令官(フランス)、芸術文化勲章の司令官(フランス)、MédailledelaDéfense国民の銅メダル(フランス)、ベルギー王冠勲章の司令官(ベルギー)、ナイル勲章の司令官(エジプトの最高栄誉)、イタリア共和国功労勲章の司令官も授けられている。
↑全部私のダリダのCD。いろいろな言語で歌われていて面白いです。
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1970年代-
ダリダは40代に突入していた。(1933年生まれ) しかし人気は衰えなかった。
それまでは舞台衣装はディオールとピエール・バルマンに発注し、女性らしい身体の線を強調しつつも、比較的おとなしく見える清楚なワンピースドレスばかりを着ていた。
ただし、もともと私生活ではイヴ・サンローランのジャケットやパンツをかっこよく着こなしており、その姿を見たゲイコミュニティーに絶賛されていた。
男顔で声もどちかといえば低音のダリダは、前々からゲイたちに人気があった。
彼らの声援には彼女も応え70年代前半に、同性愛を肯定するニュアンスの歌詞のシングルレコードも発表し(当時では画期的)、
そしてゲイの人権集会にはたびたび顔を出しそこでチャリティーショーを行い、またエイズ治療研究所には多額の寄附をしてきている。
70年代に入って40代になったダリダの衣装は、ガラッとそれまでとは路線を変え、色鮮やかなスパンコールのパンツに、派手ななりのものばかりになった。
発表する曲もディスコ調のものが増えており、ますますゲイコミュニティーの熱烈なファンが増え、中年とはいえ、ダリダはまだまだ"ホット"だった。
タイのバンコクにも"cafe Dalida"という女装♂バーがあるらしいです。死後、ダリダはタイのゲイコミュニティーですごく人気が出たらしい
コルシカ島には豪華な別荘を建て、カイロから呼び寄せた弟には自分の事務所のマネージメントを任せ、また弟の息子を我が子のように可愛がり、キャリアも順調。何もかもうまくいっていた。
しかし実際のところ、父親とは溝があるままで(戦争中、イギリスの捕虜収容所に入れられてから、人格がすっかり変わってしまった父親)、
幼年時代の目の感染症による斜視のせいで、さんざんいじめられたトラウマも克服できておらず、なかなか厄介なインナーチャイルドを抱えていた上、
婚約していたルイージ・テンコと元夫のルシアン・モーリスの相次ぐ自殺の後、ダリダは慢性うつ病に悩まされていた。
さらに太ることへの恐怖があまりにも大きく、食べては嘔吐すること、摂食障害だった。
とある新人歌手にも、喉に指を突っ込み吐くやり方やそのタイミング、そして喉のマッサージの仕方など事細かく助言しており、
ダリダはその新人歌手に
「実は若い時からずっと過食症なの」
と打ち明けている。
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↑ダリダのコンサートに駆けつけたミッテラン(1972年)
1972年
シャトーシノンでコンサートを終えると、ある男が花束を抱えて現れた。フランソワ・ミッテランだった。
その後も数回、ミッテランはダリダの舞台を見に来て、時には大勢の前で大きな薔薇の花束を贈呈することもあった。
「二人の関係は一体...」
ひそひそ噂されたが、当初は決定的な目撃や証言がなかった上、ミッテランもまだ大統領に上り詰めていなかったため、メディアに大きく取り上げられることもなかった。
実際、ダリダとミッテランがぐっと接近したのは1978年で、二人の秘密の関係が大勢に知られのは、1981年の大統領選直前のことだったと言われている。
🎤
ダリダはライブパフォーマンスを始終、最優先してきた。
彼女がライヴを行った国は、西ヨーロッパほとんど全部の国々、旧ソ連含む、チェコスロバキア、ルーマニア、ポーランドなどの東欧諸国、
そしてアフリカ大陸は南ア、アルジェリア、モロッコ、アンゴラ、マダガスカル、エジプトなど。
アジアはイラン、日本、(香港と台湾についてはちょっと確認できず)、
そして中東諸国(レバノン、ヨルダン、モロッコ、アルジェリア、エジプト、アラブ首長国連邦など)に、
南米はブラジル、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、ウルグアイ等などなど。
中でも注目すべきなのは、1965年にダリダはイスラエルの首都、テルアビブの大きな文化ホールでもコンサートを開いていることだ。
エジプト出身の歌手が和平を結んでいないイスラエルに渡ったのだ。
(もっともエジプトのパスポート所持のままなら、当時はまだ国交がなかったのでイスラエルツアーは実現できなかったでしょう)
それだけじゃない。
テルアビブでもダリダはヘブライ語でユダヤ民謡、『ハバ ナギラ(הבה נגילה, Hava Nagila)』も歌った。
前回書いたが、ダリダは、歌のショーにオリエンタルソングを次々に取り入れた最初の国際的な歌手だった。
彼女はいいと思った民謡や伝統音楽はどんな国のものでも、すぐさま取り入れ極力オリジナルの言語で歌った。
それはやはり音楽家の両親(カイロオーケストラ楽団初代バイオリニストとオペラ歌手)をもち、
特に父親が広範囲に渡るジャンルの音楽レコードをよく家でも流していた。そういう環境で育ったことも大きいのだろう。(※母親はオペラ歌手ではなく、カイロオーケストラ楽団のお針子だった説もあり)
だからヘブライ語の民間伝承の『ハバ ナギラ』を歌ったのも、純粋にいい曲だと思ったからなのだが、
エジプト出身の歌手がイスラエルでユダヤ民謡をヘブライ語で歌う...
こんな話は今に至るまで他に聞いたこともない。
また、もっと凄いのがダリダのアレンジ版『ハバナギラ』は、その後世界中で、多くのアーティストがカバーし続けている上、
最大級に驚きなのは、ダリダがヘブライ語でユダヤ民謡を歌ったことにエジプト人が激怒しなかったことだ。
さらにこの数年後の1971年には、ダリダはパリのオランビア劇場で、ユダヤ民謡『Hene Ma Tov 』もヘブライ語で歌っている。
にも関わらず、ダリダはあのごちゃごちゃした数多いどのエジプト人テログループからも、何も犯行声明を出されたことがない上、
もともと中東(エジプト)出身の歌手ということで、他のアラブ諸国からも親しみを持たれ、どのアラブ諸国でも最大限の歓迎をされている。誰も彼女がイスラエルに渡りヘブライ語で歌ったことを気にも留めなかった。
ところがかたや...かたやサダト大統領はイスラエルの大統領と握手して、エジプト人テロリストに暗殺されたというのに! (もちろん政治は別問題ですが...)
↑メノーラ(燭台)のユダヤ教シンボルまで入れられているとは!
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1973年、ダリダは『18才の彼』のシングルを発売する。これはドイツを含む9カ国で1位になり、350万部を売り上げた。
1974年には1月15日、「ジジ・ラモロソ」をシングルレコードを発表。
7分30秒という長さであるのにも関わらず、このタイトルは、ダリダの世界最大の成功であり、12か国でナンバーワンに輝いた。ダリダ自身の歌声による日本語バージョンも発売されている。
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ダリダの恋愛遍歴は相変わらず激しかった。
しかも懲りないといおうか、既婚者との不倫も幾度もあった。
うまくいかない恋愛を繰り返すのは、何か自分に問題があると分かっていたので、フロイトもユンクも両方読みあさり、スピリチュアルな悟りを開くためにヨガや瞑想にも専念した。
カウセリングにもかかったが、担当医(既婚者)と交際してしまうだなど本末転倒...
「一番私を理解してくれ、包容力があったのは結婚したルシアン・モーリスだけだった」
この頃になり、ダリダはやたらと自殺した元夫のことを口に出すようになり、酒の量も精神安定剤の量も増えていった。
↑ルシアン・モーリスと
ダリダが恋愛感情抜きで心を許し、親しくしていた男性はまず弟オーランド、腐れ縁のアラン・ドロン、そしてマイク・ブラントの三人だった。
マイク・ブラントはダリダより一回り以上若いシンガソングライターだった。
彼はイスラエル人で、同じ中近東出身ということもあり、ダリダは"もう一人の弟"または自分の後輩/弟子のように親身に面倒を見た。実際、全く肉親のような関係だったらしい。(※いろいろ噂はあり)
ところが、ブラントは華やかなショービジネス世界に入り人気が出たものの、合わなかったのだろう。精神のバランスを崩し、一度自殺未遂を起こした。
その時はなんとか助けられたが、間もなくして1975年に彼はホテルの窓から突発的に飛び降りて命を落とした。28歳だった。
ダリダの服用する精神薬の量はまた増えた。
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1978年、ダリダは再びアメリカに挑む。
その際、前回の反省を踏まえ、徹底的にアメリカの音楽シーンのリサーチを行った。
まず時代はすでに"ディスコ音楽"に移っていたので、髪を金髪に染め上げ(すでによく金髪にはしていたが)、そして都会的かつ、ファッショナブルでセクシーでかっこいい衣装を身につけ、
ブロードウェイのミュージカルのような振り付けのダンスを激しく踊り、観客に見せる笑顔もはっきり大きく意識をし、何もかもアメリカ人好みの演出を徹底した。
優等生のなりで棒立ちのままシャンソンを歌った、一回目のアメリカツアーの時とは180度演出を変えている。
これが実にうまくいった。
ニューヨークのカーネギーホールで、ダリダは見事拍手喝采を浴び、アメリカの音楽記者はこぞって彼女を絶賛する記事を書いた。
🎤
同じ1978年、サダト大統領の誘致もあり、ダリダは再びエジプトへ飛ぶ。
この年はエジプトにとって悲願の叶った年だった。
エジプトがシナイ半島をイスラエルから取り戻し、そして両国が和平を締結したのだ。
それを記念するイベントのひとつに、ダリダのコンサートがあった。実際にダリダはサダト大統領の前でも、ライヴパフォーマンスを披露。
カイロの小さなショブラ地区で生まれた眼鏡の女の子が、エジプト大統領の前で堂々と歌を唄ったのだ。
今回、ダリダには"サプライズ"の用意もあった。
ステージでずっとフランス語のシャンソンをメインに歌っていたが、途中ダリダは突然エジプト方言のアラビア語の歌を歌い出したのだ。
エジプト人たちは驚き総立ちになった。
実は以前レバノンへ行った時、レバノン側からアラビア語の歌も舞台で歌って欲しいとリクエストをされた。
そこでエジプトの伝統的な民謡『Salm ya Salama』を現代風にアレンジし披露した。
これが大好評であったため、
「全曲アラビア語の歌のみ収録盤も製作してみようかしら」
という気になった。
それまでアラビア語でも歌うという発想がなかったのが不思議といえば不思議なのだが、単にあまり興味がなかったのか...
とにもかくにも、ダリダはその後まず『Salm ya Salama』を五つもの言語で歌い全て収録もし、いずれの言語バージョンも売れに売れ驚異的な成功を収めた。
↑レバノン
『Salm ya Salama』の成功に気を良くしたダリダは
「それならば」
と、オリジナルのアラビア語の歌を数曲を新たに加え、ベイルートとパリのスタジオでそれらのレコーディングをした。
このエジプトツアーでは、これら全曲(といってもたった数曲)のアラビア語の歌を歌ったのだが、
まさかダリダのアラビア語の歌を聴けると期待していなかったエジプト人の聴衆は、鳥肌が立ち大感激をした。
ベリーダンスの振り付け方はお粗末だったけれども、そんなことはどうでもいい。ダリダのアラビア語の歌は全てどれもこれも反響を呼んだ。なぜなら全て名曲でもあったから。
レコードが売れないエジプトでは、ダリダのアラビア語ソング集はカセットテープで販売された。(ほとんど海賊版だけど)
そして最初で最後の、たった一本限りのダリダのアラビア語アルバムは、1997年にはCDに再収録され販売された。
当時、エジプトでは国内アーティストのカセットテープは一本2,3ポンド(当時のレートで50~100円)だった。(ちなみに洋楽アーティストは5~10ポンド、150~300円でした)
ところがダリダのCDは忘れもしない50ポンド(1500円)だった。これは破格の高値だ。日本人の感覚でいえば3万円ぐらいだろう。
それなのに、50ポンドもするCDが売られたのだ。しかも当時のエジプトはまだまだCDは非常に珍しい時代だった。
現役トップ歌手のアルバムのCDすらほとんど出ていないのに、昔のダリダのアルバムはいち早くCD化された。
エジプトで、いかにダリダが特別なのか分かっていただけるだろうか。
それだけじゃない。
この『Dalida in Egpyt』のカセットテープについて、非常に興味深いエピソードもある。どこにも書かれていないエピソードなのだが...
テープは1978年にまずエジプト国内で販売。
どの歌も基本的に、故郷を想う歌詞/遠くにいる親しい人を恋しく想う歌詞ばかりだ。
おそらくダリダが伝えたかったのは
「私は長いことエジプトを離れていてフランスに定住しているけど、心はエジプトにあるのよ。いつもエジプトを忘れていないわ、恋しく思っているわ」。
あくまでも自分がエジプトを想っている、とエジプトのファンたちに伝えたかっただけだと思われる。
ところが!
エジプト人の多くは、稼ぎのいい湾岸諸国に出稼ぎに出ているのだが、
故郷を離れ異国で孤独に働く夫/兄弟/息子/恋人/友らに、エジプトに残された家族/恋人/友人は
「歌詞がまさにもうピッタリ!」
とダリダのこのカセットテープを送った。
それを受けとった出稼ぎエジプト人たちは、カセットテープを再生すると、ハッ。そしてドバっと涙を流した。(←当人たちが言っていました)
遠く異国の地で孤独に堪え働くエジプト人男性らにとって、ダリダの哀愁を誘う声やメロディーと歌詞がもろに彼らの琴線に触れた。
例えば『Akhasan nas(good people)』の歌詞は
「地中海のアレキサンドリアはこういう町でこういう人々で、イスマイールの町はこうでこんな人がいっぱいいて、ソハーグの町はは鳩で有名なんだけどもね...カイロの町はね...」
など、エジプトの各都市の特徴や人々のことを明るく生き生き歌い上げている。これがもろに異国の地でひとり淋しく頑張っている男たちの涙腺にぐっと"きた"。
分かっていただけるだろうか。
インターネットのない時代で国際電話の通話代も馬鹿高く、手紙のやりとりといっても、識字率が低いエジプトでは読み書きができないことも珍しくなかった。
そこに前情報が何もなく、送られたテープをラジカセで再生すると、日本で例えば
「北海道は自然が雄大でね、大阪はみんな人情があってね、福岡はなんでも美味しくてね」
など歌っているようなものだ。これは涙が出る!
↑2000年頃、エジプトの歌手らにカバーされました。エジプト各都市が舞台です。
ヒットソングの要因を揃えたメロディーの『Aghani Aghani(私の歌よ、私の歌)』は、
"私の祖国はとても美しいの、いつだって私の願いは祖国に帰ること、祖国のあなたのそばにずっといること。だって言っていたわよね、私たちは絶対離れられないって。(今は離れてしまったけど)必ずまた一緒になれるという希望を持っているわよ。"。
どうです? これを聴いて泣かない出稼ぎ労働者はいるわけがない。
『Helwa Ya Baladi(私の美しい故郷)』は
"懐かしい家族よ友達よ..会えていなくてあなたが私を忘れていても、あなたは私の心にいるわ"。
サビ"の盛り上がり部分は
「バラディ、やバラディ(私の故郷よ故郷よ)、早く故郷に戻りたい、戻りたい」。
号泣必須だ。
しかし、繰り返し繰り返しカセットテープを聴くとテープは伸びてダメになる。
すると新たに同じテープを求める。
彼らのそのリクエストに応えるため、湾岸諸国でもダリダのテープ販売される。
ダリダのアラビア語ソングテープを店頭に並べると、エジプト人以外のアラブ人らも積極的に買い求めた。なぜなら中東というのは複雑な地域だ。
だから故郷を失ったパレスチナ人、内戦で苦しむレバノン人、そしてごちゃごちゃややこしい難しい情勢の国々の人が大勢いる。
ダリダのアラビア語の歌は、それらの、それぞれの故郷/祖国を想うアラブ人たちの心にもズトンと響いたのだ。
もともとダリダはすでにレバノン、ドバイ首長国連邦、イスラエル、モロッコ、ヨルダンなどでも人気だったが、
フランス語の歌が多かったため、中東の中でも裕福な部類の国々ブルジョアらに知られているだけだった。
ところが庶民にも共感できる歌詞であるアラビア語で歌った『Dalida in Egpyt』のテープは、全ての階級のアラブ人の心をわしづかみにした。
パレスチナ難民の間ではこのテープに収められている『Helwa Ya Baladi』(美しい我が祖国)が心の支えになり、YouTubeにも上がっているがパレスチナ人アーティストたちによる『Helwa Ya Baladi』の再生率の高さよ...
レバノン内戦、シリア内戦でもダリダの『Helwa Ya Baladi』を人々は何度も何度も聴き、涙を流した。
"亡くなったダリダの功績"という英語/フランス語サイトはいくつもネット上にあるが、どれもこのアラビア語ソングの数々には触れられていない。
2016年『ダリダ~甘い囁き』でもアラブ世界におけるダリダの凄さと功績については、これっぽっちも触れられていない。
しかしダリダイコールシャンソンとディスコソングだけではないのだ。
今でも、『Dalida in Egpyt』のテープに収録された歌全てがエジプト国内外でトップレベルのシンガーたちにカバーされ続けている。
その上、2022年に入っても、アラブ諸国出身の大スターたちがダリダを歌い続けてもいる。
何十年前も発売されたアルバムの収録曲全てを、現在でもエジプト人は誰もが歌える。老若男女みんなが唄えるのだ。
大して売り上げも期待していなかった、ただ一回ぐらいはアラビア語でもレコーディングしてみよう、エジプトでアラビア語の歌を歌おう..
肝心な歌手のダリダは軽い気持ちだったはずなのだが、口コミは国境を越えて中東中の紛争地帯でも愛され聴き継がれ、『Dalida in Egpyt』は奇跡の名盤としか言いようがない。
もし彼女が生きていれば.. 1987年に54歳の若さで自殺しなければ...残念だ。
次が最後の予定です、つづく