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春の砂嵐、そして砂漠の希望

続き:


アメリカン大学のアラビア語コースはめちゃくちゃハードだった。宿題もバンバン出た。そして同時にとても授業料が高かった。でも親の援助も打ち切られていたので(ソリャソウダ...)、

よって、ちょくちょく休学し、その間観光ガイドや撮影コーディネーター(のアシスタント)のバイトをこれでもか、というほどびっしり入れた。

だけど、エジプトにおける観光もテレビ番組も、メインは南エジプトのルクソールだった。

古代エジプトの最盛期を誇る遺跡が、カイロから遥か離れたルクソールに集中しているため、早朝にカイロ空港に向かわねばならないことだった。(ルクソール行きの便は朝に集中していた)

日中はあまり出て来ない野犬集団が、早朝4時には団地の前に大勢たむろっていたる。そして人間を見ると近づいてきた。

もしかしてひょっとして、友好的な意味で寄って来ていたのかもしれない。だけど狂犬病注射を打っていないし、お腹を空かして飢えているのは一目瞭然。

暗い砂漠の団地の、人影のない所で野犬達が近寄って来ると、心底怖くてたまらず、

「ああ、早く"街"に戻りたい」が私の口癖だった。

              ※

この砂漠地帯のナセルシティに住んでいた時は、都心部タハリール広場がとても遠く感じ、服などの買い物は隣のヘリオポリスシティに出かけていた。

ヘリオポリスシティは、ムバラク大統領の住む大統領官邸もあり、繁華街も(ナセルシティに比べたら)非常に垢抜けていた。

だから、用事は全てヘリオポリスで間に合わせていた。

スーザン・ムバラク大統領夫人行きつけの美容院にも行ったが、「パーマをかけたい」と言った時は、店長のアリにびっくり仰天された。

「エジプト人はみんな天然パーマだから、わざわざパーマなどかける道具はないっ。それよりお前はちょっとくせっ毛がある。

せっかくヤバーニー(日本人)のいい髪の毛をしているのだから、ストレートパーマの方にしろ」。

そして有無を言わせず、熱したアイロン(鉄棒)を私の髪の毛に承諾なしに勝手に当てて焦がした! 

こ、これがストレートパーマのかけ方なのか!?

シャンプーだって、エジプト人スタッフは不器用なので、全身ビシャビシャに濡らされ、挙げ句には仕上げに変なてこな大きなリボンを付けられた。


また眼科では、日本で作った眼鏡を見せると、その技術 (強い度数なのに、軽量薄レンズ) に度肝を抜かれ、眼科医に私の眼鏡を盗まれそうになった。

まったく、どこでもかしこでも油断も隙もない。いちいち疲れることよ...


そうそう、前のvillaで同居人だったヤスミンは、このヘリオポリスのアパートを借りていた。たまに会ってマクドナルドなどに行ったが(いわゆる普通のカフェはまだなかった)、相変わらず今カレと元カレの間でふわふわ揺れていた。

ワルダと息子のアフマド少年は、実家に出戻っていた。実家の居心地は悪いらしかったけれど。


ヘリオポリスから家に戻る時は、私はいつもROXY広場でタクシーを拾ったのだが、

「ナセルシティの○○通りまでお願い」

というと、運転手はみんなギョッとする顔をした。

「お前はどう見ても外国人だ。しかもヤバーニー(ジャパニーズ)だろ? なんでそんな貧困街に行くんだ?」

そんな寂しい所に若い日本人女性の私がひとり暮らししている、などの情報は与えたくないので、

「働かないエジプト人の亭主と子供三人抱えて、ナセルシティのぼろい団地に住んでいるのよ」といつも私は答えていた。

すると、どの運転手も必ず

「エジプトの男は働かないからな。馬鹿だなあ、なんでマスリー(エジプト人)なんかと結婚したんだ。」(←自覚があるのがウケる)

そしてやはり、絶対に外国人ぼったくり料金を請求しなかった。(笑) 

お金持ちの外国人が多いザマレックやガーデンシティに住んでいた時は、行き先はザマレックだ、と伝えただけで、ぼったくり体勢に入られていたものだったのに!

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ヘリオポリスシティのロクシー広場のところ              

              ※

砂嵐の時期が過ぎても、同じ団地に住む、カイロ大学日本語学科専攻のニビーンとの交流は続いた。お互い"交換授業"を始めたからだ。

彼女が私にアラビア語とベリーダンス(笑)を教える代わりに、私は日本語を教える。

でもレッスン場所はいつだってニビーンの部屋だった。彼女が私の部屋に来ることはなかった。

なぜなら、例え同性でも、ひとり暮らしの外国人の住む家に、未婚の娘を行かせる親はいないからだ。ましてや誰かに目撃されたら噂される。

そうそう、ニビーンの部屋はトム・クルーズのポスターだらけだった。笑


「なんで日本語を選んだの?」とある時私が尋ねた。

「エジプトでは外国語を身につけないと、いい仕事にありつくチャンスがありません。英語やフランス語を喋るエジプト人は大勢いて、飽和状態です。

しかし、日本語を話すエジプト人はまだ少ないです。それなのに日本は経済大国なので、今後ますますエジプトにも日本企業が進出してくると言われています。

だから日本語を選んだんです」。


「日本の歴史は興味ないの?」

するとニビーンはえっと驚く顔をし、苦笑した。

「興味も何も! あなたたちの歴史は短くて少ししかないじゃないですか!だから興味を抱けるほどじゃないです」。まだクスクス笑っている。

「...」


またある時だった。

交換授業の最中、ニビーンと私の雑談の流れで、野犬が多い話になった。

「早朝に観光ガイドやコーディネーターの仕事で空港へ向かうのに、野犬の群れに追いかけられることと、

タクシーを捕まえるのに道端に立ち、見知らぬ男たちの車が寄って来るのが心底怖い」

と私がこぼした。

驚愕したニビーンは大声で高校生の弟を呼び付け、早口でこう命令をした。

「今後、あなたが早朝エスコートしなさい!」。


姉の彼女は簡単にそう言ったが、毎回朝4時前後ばかりで、彼だって学校もあるしあまりにも悪い。

固く辞退したのだが、ニビーンは「弟にさせる」と言ってきかなかった。しかも肝心な弟もやる、と言い張る。嫌がらないのに驚きだ。


実際にそれ以降、朝4時に私が団地の下の玄関に行くと、眠そうで寒そうにしている弟君が、そこに奮えながら先に立っていた。

近寄ってくる野犬たちの追い払い方も手慣れたもので、上手い!

パンを遠くに投げそっちに犬たちを走って行かせなくても、ジェスチャーと、謎の喉鳴らし音だけで一匹足りずともいなくさせた。

喉奥から不思議な"音"を立てるのだが、それを聞く野犬は不思議と全員、後ずさりをし逃げ去るのだ。

話は逸れるがムツゴロウさん、こと畑正憲氏に犬散歩中に、たまたま遭遇した時、畑氏は私の犬にそれと全く同じ喉鳴らしをした。

すると、案の定私の犬は怪訝そうな表情をし、後ろに下がった。別に一切襲いかかろうとしていなシニアの小型犬だけども(笑)、

「その喉鳴らしは何ですか」と聞いてみれば良かったなあ。


野犬を追い去ると、夜明け前の人気のない砂漠道路まで、弟君は一緒に歩いて行きタクシーを止めてくれた。

なるべく人の良さそうな老人運転手をちゃんと選び、

「しっかり空港まで安全に届けろよ」と言ってくれた。(高校生ですぞよ!)

私ひとりだと、外国人の若い女性が手を挙げるわけなので、通りかかる男の一般ドライバーたち運転手がほぼ100パーセント、車を止め近寄って来てからかったりしてきた。

ヒガーブ(スカーフ)で頭も顔も隠していたが、それでもじろじろと値踏みするようにこちらの全身を眺める。恐怖でしかなく、いつか犯罪になると思ってドキドキしていた。

でも弟君の付き添いが始まってから、このような見知らぬ男たちが車を止め、私に話しかけて来たり近寄って来るということは、皆無になった。

「報酬を受け取って欲しい」

私は弟君に申し出た。が、彼は頑なに拒んだ。

「なんなら、お姉さんのニビーンには黙っておくから、どうか受け取ってよ」。

弟君は首を横に振りつづけた。

「姉のベストフレンドのloloさんは、僕の姉であるのも同然だ。だから自分の姉を守るのは当たり前だから、お金なんか貰えない」。

...

感動だ。昔昔、私の塾の帰りを迎えに来ていた兄は、母からちゃっかりそれなりの報酬を受け取っていた。だから妹の私の迎えに来ていたというのに!


とにかく弟君に申し訳なく、結局私が改めて自分の雇用主である、旅行会社に噛み付いた。(そもそも早朝手当ても交通費支給もない)

でも知らん顔された。いくら危険だ怖い、と直訴しても無視だった。

何か方法はないかな、と考えていた時、渡りに舟があった。

マリオットホテルに入っている日本人会の帰り、同ホテル内の小さなキヨスクで英語新聞を買っていると、とあるヨーロッパ人に突然呼び止められた。

「ビジネスでカイロに出張に来ているのですが、お茶でもどうですか。あ、怪しい者ではありませんから」

とそのヨーロッパ男(チビハゲだった)が、名刺を渡してきた。それを受けとるやいなや、私は「オオ!ファンタスティック!」。

なんという奇跡! そのチビハゲ氏は、私の勤務する旅行会社の、ヨーロッパ本社の人間だったのだ。

直ちに私は鼻息荒く「さあ、お茶を飲みましょう!レッツゴー」とチビハゲ氏のクビ根っこを捕まえ、ホテルのティーサロンに向かった。

そして席につくやいなや、激しい滝のごとく愚痴不満をまくし立てた。

「いつも早朝にひとりで空港まで行かされている。どんなに危険なことか想像つきますか?」。

ここで野犬問題や、タクシーを捕まえるために大通りに立っているといろいろな車が止まり、中からエジプト人の男たちがおりてきて近寄って来る、という怖い現状を話した。

おそらく、ナンパのはずだったチビハゲ本社君氏は、まさか自分の会社のカイロ支社のバイトに、労働環境の苦情をまくし立てられ、思いっきりギョッ。笑

私に尻を蹴られた本社君はすぐにカイロ支店に向かい、エジプト人支社長を怒鳴りつけてくれた。

「お前は、もし自分の妹が異国の地でひとりで働いていて、暗闇の砂漠道路でたったひとりでタクシーを捕まえることをさせられている、と聞いてどう思うのだっ!」。

その後、旅行会社社員が私の団地の真ん前まで迎えに来てくれるようになった。

これで私は助かったけど、早朝にマイカーを運転し私を空港まで送り届ける業務に手当てなどつかない。完全なサービス業務だった。

そしてこれを押し付けられたのは、万年課長の気が弱いターメルおじさんだった...


             ※

私はニビーンにこんなことを聞いたこともある。

「尊敬している日本人はいるの?」

「小池百合子さん! 

百合子さんはカイロ大に在籍していて、日本に戻った後テレビで活躍し、議員になりました。

同じ女として憧れるし、尊敬です。私もエジプト版小池百合子さんになりたい!

ただ、小池百合子さんはエジプトに留学していた議員なのに、全く日本とアラブのかけ橋になってくれていない。

全然、日本とアラブがもっと団結するような役割を果たしてくれないし、彼女はアラブ、エジプトに対する想いの発言も全くしてくれない。それは残念です...」。

「卒業後は日本語の観光ガイドになるの?」 (※エジプトでは旅行業の地位がとても高く、医者や弁護士よりも稼げ、ステータスもあった)

ニビーンは横に首を振りため息をついた。

「観光ガイドは泊まりの仕事があります、親は絶対やらせてくれないでしょう。ガイドは儲かるので、やりたいことはやりたいけど。

だけど本当になりたいのは外交官なんです。外交官だなんて、父も母ももっと反対するでしょう。そもそもなれるとは思えないけど。だってコネがないから」。

「日本はこの先どうなると思う?」

「父いわく、多くのエジプト人は"見てろよ、十年後にはエジプトも日本に追いついているからな"と言うけど、父はそれはないと思っている。

だって十年後には日本はもっと先に行っているから。私も同感で、日本はどんどん先に進み続けると思います。

だから私は日本語をもっともっと、勉強して頑張りたいです。

そして、アラーにもっともっとお祈りして、まずは外交官になるという願いが叶うよう、そして両親がそれを認めてくれるよう、アラーに強く祈ります」。


              ※

その後、私はまたダウンタウンの方に引越しをした。ナセルシティには結局10ヶ月住んだ。

やはり砂漠地帯に住み続けるのは限界だった。喉が痛いし野犬は怖いし、空港に向かう以外、やはりいろいろ不便だったし。(仲の良い日本人や外国人の友人も、みんな市の中心部に住んでいた)


ニビーンと弟君がタクシーに大きな荷物を次々に積み込むのを手伝ってくれた。(タクシーの屋根にも載るだけ荷物を積んだ!)

昼間なので、野犬はあまりいなかったが、それでも弟君が野犬たちを寄せつけないよう、ずっと謎のグルグルゴロゴロを喉で鳴らしてくれていた。

番人の娘のゼイナはガックシきて、見送りに出て来てくれなかった。おそらくあの娘はその後、結納金目的の父親ハッサンによって、きっとまだ十代半ばでずっと年上と結婚させられただろうな、と思う。


ニビーンとの交換授業は続け、時には一緒にガーデンシティ地区の日本大使館へ足を運び、日本映画を鑑賞した。

(確か無料。でもいつも上映会のチョイスが悪かった。

全体的に地味な古風な日本映画ばかりで、もっとエジプト人の"いまどき"な若者の心をつかむような、例えばSF的な角川映画だとか、現代の都会を舞台にしたキャッチーな日本映画は全然上映されなかった。

だから満席になるきとはほとんどなく、いつだってエジプト人みんな退屈そうだった。)


しかしそのうち、ニビーンとは次第に交流は途絶えた。お互い忙しいと、離れている距離に住んでいる場合、なかなか会うのも難しかった。

            ※

さて2022年現在-

殺風景寒々しかった砂漠地帯の団地エリアだったナセルシティが、大きく豹変している。

90年代には、ここに住む外国人はほとんどいなかったものの、現在ではスーダン、ソマリア、ナイジェリア、中国、マレーシア、さらには米国など、さまざまな国の難民や移民が住んでいる。

またナスルシティには、セントファティマスクールやアルアハリ大学など新しい学校や大学などが次々設立され、カイロ国際会議センター、カイロ国際スタジアム、そして今や、いくつかの政府の建物もある。

さらに、この地区にはショッピングモールが集中し、なんと現在ではエジプト最大のシティスターを含め、8つものショッピングモールがある。

これらほとんどは1990年代後半に建設されそしてオープンしていった。ちょうど私がこの地区を去った後ぐらいから、徐々にナセルシティは栄えていったというわけだ。

ちなみに、これらのモールは通常、休日や夏の夜は非常に混雑し(午前11時頃まで営業せず、ピーク時間は""午後"10時頃に開業)、ファーストフードレストランやコーヒーショップは夜遅くまで営業し一日中賑わっている。

他にも、今では区にはたくさんのレストラン、コーヒーショップ、映画館、ボーリング場、シーシャ(水タバコ)バーなど、さまざまなショップやレジャー施設がある。

さらに、ナスルシティの第10地区には肉屋、果物と野菜の屋台、複数の衣料品店などが並ぶ最大の市場もある。がらーんとして何もなかった90年代半ば頃とは雲泥の差だ。

当然、ナセルシティの地価もうなぎ上り、なんと! 私がいた時の二十倍の値段にはね上がったようだ。

「ナセルシティは絶対地価が上がる。投資になる」

と言い切っていたニビーンのお父さんの言う通りになった。

ああ、ナセルシティに不動産を購入しておくべきだった、あの時は百万円以下の物件もあったのに..


野良犬も以前よりは減ってきてはいるという。

ただし、エジプトでは動物の権利に関してまだまだ多くの問題がある。

まず、日本は緩いながらも一応動物愛護法があるが、エジプトには動物虐待に対する厳格な法律や処罰が存在しない。そもそも動物愛護についての親の教育や学校教育自体も、一般的には全くない。

だから、子犬を溺死させたり、子猫を生きたまま埋めたり、動物の頭を壁にぶつけたりするなど後を絶たない。

働くロバも路上で虐待され、鞭や棒で酷使され、栄養失調になっている。

私がエジプトに住んでいた時も、街中で犬猫ロバに虐待をされる場面を、幾度も目撃した。

ただイギリスなどの愛護団体の尽力もあり、エジプトでも少しずつ、動物愛護の概念が生まれてきており、

例えば、深夜に警察が野犬を銃で始末している、と書いたが、

2013年1月にChange.orgでキャンペーン(Occupy For Animals)により、野犬野良猫に毒物を食べさせたり、銃撃で処分することを止めよ、という請願の署名運動がおきた。

こういう動きが始まったこと自体、画期的だと私は思った。以前のエジプトでは考えられない。


かたや、2014年にジャーナリストで詩人であり、二人の息子を持つ母親でもあるFatima Naoot(1964年生まれ、彼女の詩は各言語に翻訳されており、中国では有名だと思う。日本語では出版されていないはず)が、snsで犠牲祭では動物(山羊/羊)が犠牲にあっている、と書き込んでいたのだが、

決して宗教批判の意図はなく、そのやり方(じわじわ殺すやり方)に提言をしただけだったと思われるが、"宗教への軽蔑"の罪に問われ、2年後の2016年に三年の刑を宣告された。

コーランに書かれた動物への扱いの解釈などが、きっとネックなのではないかと思うが、

それでもカイロ市内には、保護犬猫を収容し里親を探す保護団体もいくつか誕生し、少しずつ人々の動物への考えが変わってきている(本当に少しずつだけど)のが救いだ。


ニビーンとは連絡を取り合っていないが、日本語をマスターして今頃、どこかで日本とエジプトを結ぶグローバルな仕事をし活躍してくれているに違いない。本当にもしかして外交官になったかもしれない。

彼女は「日本は常に十年は先に行っている」と言った。せめて動物愛護の点だけでも、そうであるといいなと思う。でも、日本のペットビジネスのめちゃくちゃな現状など、とても恥ずかしくて言えないや...


追記:
動物福祉エジプト(ACE)は、ルクソールを拠点とし、無料の獣医ケアと教育を提供。


動物福祉ルクソール(AWOL)は、ルクソール西岸にある英国の登録慈善団体であり、
ロバキャンパスは、ギザの移動診療所で運営されている。

エジプトのマウ(猫)レスキュー組織(EMRO)は、古代エジプトの神聖な猫の子孫であるマウ猫を救うことを目的とした非政府組織として2004年に設立された。


エジプト動物慈悲協会(ESMA)は、2007年に非営利団体として、
シャルムエルシェイクアクション(SAFA)は、シャルムエルシェイクの路上で野良動物を助け救助するために2011年に設立、


エジプトの動物の権利の保護のための協会(SPARE)は、2001年にAmina Abaza氏(女性)によって設立。

2013年11月、Abaza氏は動物虐待を防止する法律が提案し、可決された法律とエジプト憲法第45条は、次のように述べられた;

"(カイロ)州は都市部の緑地を保護および開発し、植物、動物、魚の資源を保護し、絶滅または危険にさらされている生き物を保護する。そして法律に従って、動物の人道的な扱いを確保すべし"

参照:

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↑ナセルシティの子供たち。写真は異様に古臭いですが、カイロの写真屋(ナイルヒルトンホテルの中)に出すと、いつもこんな現像で返ってきました。写真右下に吹きだしを加工で入れたのは、少年の社会の窓が開いていたからです。

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↑日本人の友人の猫。エジプト人とご結婚されている日本人は、ストリートでいじめられている猫を引き取ってあげる方が多かったです。さすが優しい! 

あと猫トイレは、その辺の砂を拾うだけ! 毎回猫砂に600円も出さずに済む! いいなあ。

なお、エジプトの猫はラム肉のピザなども美味しそう食べ、やっぱり日本猫とは違う!

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↑昔、日本で走っていた路面電車が、カイロに持ち込まれ、ナセルシティにも通っていました。日本人観光グループのお年寄りは、バス車窓からこの路面電車を見て「懐かしい!」と仰っていました。

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↑ナセルシティのGenenaモール。私がいた時には、ショッピングモール自体、市内にはありませんでした。ナセルシティとは『勝利の街』の意味で、まさに勝ち組の街となったわけですな。

ちなみに、ラムセスヒルトンのANNEX(ショッピングアーケード)の建物にエスカレーターが初めて出来て(1994年?)、人々がエスカレーターに乗りたく、大行列していたのは覚えています。


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