ナイルヒルトンからの目撃
「ああどうしよう」
辺りを見渡しても、とっさに身を隠す場所がない。
完全にパニックになって途方にくれ、オロオロしていると誰かが私の手首を掴んだ。
ハッとすると、少年だった。見た目年齢が12-14歳ぐらいの、見知らぬエジプト人の少年が私の手首をがちっと掴み、
「マダム! ビッソーラビッソーラ!」
急いで急いで! と走り出した。
つられて一緒に全速力で走った。そしてすぐそこの地下鉄の入口に駆け込んだ。
そうだった! 地下鉄の中に逃げるという手があった! 「どこか店へ店へ...」 としか念頭になかったが、地下鉄があった!
少年と私が地下鉄入口の階段を降りると、誰かが手動で階段の所の入口を鉄格子のシャッターをすぐに閉めた。
地下道には避難してきたエジプト人たちが大勢、息を潜めて身を隠していた。
「マダム、外人ってばれない方がいいからさあ、こっちにおいでよ」
少年は私にもっと深くヒガーブ(スカーフ)を被るように言った。私はそうした。サングラスをしっかりかけ直し、ヒガーブで鼻と口も覆い隠した。
そして少年は絶対外から私が見えないように、と通路の奥に匿ってくれた。
薄明るい地下道の奥で、見知らぬ少年と並んで体操座りをし息を潜めて待機した。
喋ると外人とばれてしまうので、私は黙っていた。
1時間もそこにいなかったと思うが、しばらくして地上の喧騒がだいぶん静まった。
聞こえてくる音から察するに、かなり遅れて軍やらのトラックが駆けつけ、興奮している集団を解散させているようだった。
少年は
「やっと治安部隊が来たから、もう行っても大丈夫だよ」といった。
「何が起きたの?」
震える声で尋ねた。少年は首をすくめ、英語で答えた。
「ヤーニー(=ええっと) Just accident. That's all」
そして少年はどこかへ消えてしまった。
地下鉄入口の鉄格子も開かれ、地下鉄駅ホームの封鎖も解かれた。
しかしこのままタハリール広場の地上に出て戻る方が怖かったので、私はそのまま予定通りにメトロに乗った。
サカナット・マーディー駅に到着すると、駅そばのキオスクで25ピアストル払い電話を借りて、エジプト航空スカウト氏の家に電話をかけた。
氏は子供達を連れて車で迎えに来た。
「ずいぶん遅刻だな。君はすっかりエジプシャンだなあ、ワハハ!」
「いえ、違うんです。タハリール広場でテロがあったんです、居合わせちゃったんです」。
「えっ!?」
スカウト氏の表情がガラッと変わった。
ここで初めてへなへなとなり、号泣。もう泣いて泣いて涙が止まらなくなった。
氏の家に到着してから、(私とは初対面の)氏の奥さんが抱きしめてくれたが氏(ちなみに50-55歳ぐらいだったと思う)は私の話を聞き叫んだ。
「Shit! これでまたツーリズムが駄目になる、なんてこった!
三年だ、三年なんだ! エジプトは三年おきなんだ、絶対いつも三年おきにドカンと大きなテロか戦争が起きる。
ずっとずっとそうなんだ。だからそろそろ三年だなとは思っていたんだが、Shit、Shit、Shit!!!」。
テレビをつけた。ニュースでさきほどのタハリール広場の事件を報じていた。
しかし
そのニュースでは外国人が一人だけ死んだと報じた。本当の死者数と負傷者数、 ドイツ人7人とエジプト人ドライバー1名、そしてエジプト人ガイド1名が殺害され、あと19人は負傷を報じたのは後日だった。
ちなみにそれでも本当は、エジプト人の死傷者数はもっと多かったと私は思っている。
さらにだ。
「精神病院を抜け出した患者の単独犯罪でした」
とニュース番組のアンカーは締めた。
...
「違う、違う! あれは間違いなくテロだった!」
私がそう声を上げると、スカウト氏はこっくり頷いた。
「分かっている、分かっている」。
その日は氏の家の、お嬢さんの部屋に泊まらせてもらい、翌日氏のがモハンディシーン地区の私のフラットの前まで車で送ってくれた。
私を気遣ってくれたのは明らかだったが、それよりも
「ああこれでまたツーリズムが駄目になる、困る困る。弱った弱った...」。
察するに、多分エジプト航空が運休になっても、ろくな保障がないのだろう。
フラットに戻り玄関のドアを鍵で開けて部屋に入ると、電話が鳴っていた。受話器を取ると、友人のヨウコさん(仮名) だった。
「ああ、Loloさん!よかった!昨夜から電話をかけていたのだけど、出ないからもしやエジプト考古学博物館前の事件に巻き込まれていたんじゃないかって心配していたのよ!」。
普段、ヨウコさんも観光ガイドの仕事をしていた。昨日の9月18日にもガイドの仕事があったのだという。
あの時、彼女は自分のガイド担当の観光バスに乗り、タハリール広場の手前のガーデンシティ地区にいたらしい。
「午前はギザのピラミッドとスフィンクスに行き、ギザのサッカラ街道のレストランで鳩料理を食べて、
そしてバスで(ダウンタウンの)考古学博物館へ向かおうとしていた時、タハリール広場の一歩手前であのテロが起きたの。
バス運転手はいきなりハンドルを大きく回し、猛スピードを出してギザにUターンして、一目散にギザのホテルに逃げ戻ったのよ」。
つまりヨウコさんも危機一髪だったということだ。
もし10分でも早くにレストランを出発していたら、テロリストらが襲撃したタイミングで、博物館に到着してしまっていたかもしれない。
その後、私は日本大使館の職員に昨日のテロの件を話しに行った。しかし反応は非常に鈍いものだった。
「でもエジプト政府の発表はテロではないということだから...」。
「いいえ、違う! あれは明らかにテロだった!」
「ウ~ン、でもエジプト政府がそのように公表しているからには、その通りにこちらも対応しないといけないし...」
「...」
日本人会にも報告しに行った。しかし
「ふうん、不運だったわねえ。でも無事でよかったわねぇ」
それだけだった。また他の日本人らに話しても大半が
「Loloさんの勘違いだよ。だって精神病患者による犯行だって、政府ははっきり明言したじゃん」。
私の話にちゃんと耳を傾け聞いてくれたのは、エジプトに何十年も住んでおられる、日本人マダムたちだけだった。
さすが彼女たちは、エジプト政府の言うことは嘘ばかりだというのを、よくご存知だった。
実際、相変わらずエジプトのマスコミは、
「考古学博物館前で乱射を犯した"精神病患者"二人を拘束した。もう大丈夫だ」
と報道し続けていた。
だから"またもや"これで終わるかのように思われたが、意外な証拠が出てきた。CNNだった。
タハリール広場のナイルヒルトンホテル(2010年以降はリッツカールトンホテル)に宿泊していたアメリカ人観光客が、部屋の窓からホームビデオであのテロの一部始終を録画していた。
そのビデオをアメリカのCNNが流したのだ。
ちなみに1951年から52年に解体されたイギリス兵舎の跡地に、ナイルヒルトンの建設が始まった。
オープンは1959年だった。
エジプトで最初のアメリカのホテルであり、また第二次世界大戦後の中東でイスタンブールのヒルトン(1955年)に続く、2番目の中東における国際的なホテルだった。
コンラッド・N・ヒルトンはホテルのオープニングセレモニーに大勢のセレブをアメリカから招いた。
セレモニーに駆けつけたナセル大統領に、アメリカ人のセレブたちは興奮したという。
ナセル大統領はエジプトにおけるジョージ・ワシントンだと。ジョージ・ワシントンは国の解放者であり、民の父。ナセルも彼の国の解放者かつ彼の民の父。
だから一部のアメリカ人は、実物のナセル大統領を目の当たりにし感動のあまり身震えたという。
ちなみにナイルヒルトンホテルのオープニングセレモニーには、なぜか当時のユーゴスラビア大統領も出席している。
話は脱線したが、このナイルヒルトン宿泊客のアメリカ人が一部始終を録画に収めていた、と。
CNNははっきりと「テロリストたちがドイツ人ツアーグループを襲撃しました」
と放送し、エジプト政府の公式発表を覆し、その衛星番組はエジプトでも流れた。
するとさんざん私の目撃談を疑っていた日本人たちが
「Loloさんの話は本当だったのね!」
と言い出した。呆れてものがいえない。
CNNが本当のことを流した件を、エジプトはどう対処するのかな、まあ無視するのだろうなと私は思った。
ところがさすがエジプト!
今度はこんな噂が流れ出した。
「都合がよくなんで博物館が見下ろせる一番いいロケーションの部屋に、ホームビデオを持ったアメリカ人が泊まっていたのかな。
(↑確かに高額ホームビデオは、日本人でもアメリカ人でも誰もが持っているわけではなかった)
しかも普通はさ、汚いダウンタウンviewじゃない、正反対のナイル川viewの部屋に泊まるものなのにさ、
それなのになぜタイミング良くさあ、あの事件すべてを録画できたのかな」。
(ちなみに私自身は結局そのCNN報道を見ていません。家に衛星チャンネルはなかったので)
そして彼らは続けた:
「あの博物館前のテロはイスラエルとアメリカの"罠"だ、そうに決まっている。エジプトを陥れるために、いかにもエジプト人テロリストが襲撃したかのように見せかけた自作自演だ」。
「...」
この噂は方々で囁かれた。もう呆れ果ててぐうの音も出やしない。陰謀論好きも大概にすべきだ。
↑ナイルヒルトンホテルのへやは、"現実"の貧しいダウンタウン側(タハリール広場側)ではなく、ナイル川とピラミッド側にバルコニーが設けられていました。
とにかくいろいろな人に
「現場に居合わせたのに無事でよかった」
と声をかけてもらえた。
ところが思わぬ身体の異変が起きた。
その直後、突然下腹部に謎の激痛がおそわれたのだ。耐えられないほどの痛みで、ベッドの上でのたうち回った。全く眠れないし、上半身をまっすぐに歩くこともできない。
後日、すぐに日本大使館の日本人医師にも、アメリカの病院のアメリカ人医師にも診てもらった。
両方の医師がまず言ったのは
「妊娠の可能性はありますか。またはエジプトで中絶の経験がありますか」だった。
ムッとして「独身だし、そのどちらもないです」。
「そうですか..いやね、エジプトの病院で中絶手術を受けてその後遺症で苦しむ女性が多いので..」。
「はっ!?」
多いんだ! それにびっくりしたが、言われてみれば私の周りにもエジプトの病院で中絶手術を受けた日本人未婚留学生は三人いた。
(↑せめてヨーロッパに飛んで手術を受ければいいのにと思った)
結局、日本大使館の医者とアメリカ人医師の下した診断は
「一通りの検査をした限り、異常は見当たらないですな。なんでしょうかねえ」。
「...」
症状は他にもあった。
夜は真っ暗の中で眠れなくなり、なんとかお酒で眠れても、悪夢にうなされる。
また(人混みだらけのカイロ)において人混みが怖くなり、心臓突然バクバクしだしたり、そして前述の不意打ちに我慢のできない下腹部激痛...
PTSDという言葉はまだ一般に知られていない時代だった。
「何だろう何だろう...」
つづく
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