茉莉花茶と緑茶を愛したチェコ人外交官一家Ⅲ~LOLOのコ編㉖
1949年、西町(今の元麻布2丁目)にインターナショナルスクールが開校しました。創立者は元総理の松方正義の孫、松方種子です。
授業は英語と日本語の両言語で行われ、教えは国際的かつ現代的な内容です。しかし、外国人生徒が大勢入学してくるのは、日本が高度成長期に入り、外国人の駐在家族が東京に増加した1964年の東京オリンピック開催以降です。
チェコ人大使の息子達である兄弟(12歳と8歳)が、この学校に転入したのも1964年のことでした。
*
「チェコスロバキア外務省の決まりでは、ソ連学校以外の教育機関に子どもを入れることは認められていなかった、とおっしゃいましたよね?じゃあどうやって二人の息子さんをそのインターに入れたのですか?外務省で問題にならなかったのですか?」
二人きりで会話をしている時に、私がミロシュ母に質問をしました。彼女は小柄で可愛らしいタイプで、日本語はべらべらです。
「…」
ミロシュ母は黙りました。答えたくないにしても、もう少し微笑んだり柔らかい言葉を返してくれもよさそうなのに、いきなり無表情のだんまりです。一昔前のチェコ人あるあるです。
後でミロシュ氏本人にも同じことを尋ねました。
「ソ連学校に入らねばいけなかったはずなのに、あなたがた兄弟は日本のインターに入った。どうやってそれができたのですか?」
すると氏は
「俺は何も知らねえや」
知らないわけがありません。とにかくです。外交官が外務省の規則を破り、許可されていない現地の学校に子どもを入れたわけです。恐らく外務省への提出書類を偽造したか賄賂でうまくやったか…。
実はこの四年前の1960年にチェコスロバキアは社会主義憲法を採択し、共和国から社会主義共和国へ改称しており、ミロシュ父はこれを苦々しく思っていました。
何しろ中国の古代漢詩を読み漁り、それらの儒教の教えや革命、反戦思想などの影響を受けている外交官です。反骨心がないわけがありません。
ですから、両親は息子たちにとにかく少なくともソ連の教育をこれ以上受けさせたくない…
よって、彼らはあらゆるリスクを覚悟の上でソ連学校ではなく、何かしらの方法で息子二人を日本のインターナショナルスクールに入れました。
具体的にどのような手段を使ったのか、もしくはなぜ別の学校に入れたことがバレずに済んだのか
「話してくれてもいいじゃないか」
と私は思いました。時代が変わった、今やチェコ共和国なのだから。だからミロシュ母にもミロシュ氏本人にも聞いてみたのですが、とぼけられました。
しかし、よくよく考えてみるとです。
ミロシュ両親はドイツ占領下そしてソ連の衛星国時代も知っています。つまり急に国が、政府が、法律が、規則が、社会ががらりと変わってしまうのを何度か直に経験しているのです。
だから用心深かったのでしょう。昔の時代のことでも余計なことは一切口にしない。この手の話は何も私に対してだけではなく、どのメディアの取材にもまた誰に対しても口をつぐんだまま、打ち明けませんでした。
ミロシュ母が私に話したことは
「ロシア語を学ばせないことは将来不利になる、というようなことを言ってくる同胞の人間もいましたし、また西町のインターナショナルスクールの学費は私たちチェコスロバキアの感覚からすると非常に高く、しかも息子二人分です。支払いは大変でした。だけども、それでもそこの学校を選んでよかった。
なぜなら個々の個性を伸ばし、個々の得意分野や興味を広げてくれる教育方針で、グローバルな視野を持たせる授業も行っていたからです。(*まるで「ソ連学校とは真逆だ」と言いたいようでした)
実際、二人の息子はこの学校に通い、性格がのびのびし明るくなった上、ぐっと見違えるほど英語も日本語も上達したました」
ミロシュ氏自身もそこのインターナショナルスクールには良い思い出しかないと語っていました。
「この学校には他の国の外交官の子どもたちや、世界を転々としている子ども、それにハーフの子どもや色々な人種民族にルーツを持つ子どももいた。
ソ連学校では浮いた存在で、プラハの学校でも日本から来た異端児扱いだったが、このインタースクールでは全く色目で見られず、のびのびできた」
ミロシュ氏はこの学校に入れてもらえたおかげで、英語力も日本語力もぐっとつき、その後通訳会社や国際撮影コーディネート会社、日本人向けの旅行会社も設立しました。
ミロシュ弟も英語を駆使した演劇の世界に入りました。インターの授業でシェークスピアの原書を読んだ経験も役立ったそうです。
もし二人ともずっとソ連学校に通っていたら、後に民主化の時代の波に上手く乗れなかったかもしれません。
*
ミロシュ父は東京オリンピックの開催の年に、今度は正式なチェコスロバキア大使として日本に赴任し、またもや日本家屋を借りて一家で日本人スタイルの生活をし始めました。
1964年10月10日、一家も東京オリンピック開催式に出席しました。ミロシュ氏はその時のことをよく覚えていました。まだ12歳だったので、本当にわくわくし興奮して楽しかったそうです。
チェコスロバキアチームは95人の男性選手と9人の女性選手が出場しました。ちなみにドイツチームが西ドイツと東ドイツが合同で一つのチームとなり出場したことは話題になりました。
チェコスロバキアチームは選手だけではなくコーチやメディア、政治家らも来日しました。当然ミロシュ父は彼らの応対に追われましたが、それは事前に予測ついていたことです。
ところがもう一つ、想定外の事態になりました。日本におけるチェコ人の女子体操選手ベラ・チャスラフスカブームです。彼女はたった9人しか出場しなかったチェコスロバキアチームの女子選手のうちの一人でしたが、東京オリンピックで一気に人気が沸騰したのです。
結果的にチャスラフスカは個人種目で金メダルを三つも獲得したのもありますが、日本人に好まれる容姿や笑顔、愛嬌の良さ、そしてスター性を持っており、東京のチェコスロバキア大使館には彼女への取材の申し込みや質問問い合わせが殺到し、彼女へのファンレターやプレゼントも次々に届きました。
ミロシュ母もその時のことをよく覚えており、
「チャスラフスカは完璧なパフォーマンスとスターのオーラで会場のみならず、テレビ中継のお茶の間も魅力し、あれよあれよで東京オリンピックのスターになりました。
日本人はチャスラフスカの体操の技術と華やかな雰囲気だけでなく、彼女の女性的な魅力と謙虚にも恋をしました。
チャスラフスカ人気のおかげで、日本でチェコスロバキアの国の名前が浸透しました。もし彼女の存在がなかったなら、日本でチェコスロバキアの国名はここまで知られることはなかったと思います」
ミロシュ両親(大使夫婦)は大勢の日本人にチャスラフスカのことを尋ねられ、
「実際に会わせてほしい」
とも頼まれました。
熱心に「チャスラフスカの素晴らしさ」を語ってくる日本人ファンたちもいました。夫妻はニコニコし適当に相槌を打って対処していましたが
「いずれにせよどうせオリンピックが終われば日本人のチャスラフスカ人気も消えてしまう」
とたかをくくっていました。
「ところがどうでしょうか」
ミロシュ母が続けました。
「驚くべきことに、日本人はオリンピックが終了しチャスラフスカが日本を離れても、その後十年経っても二十年、三十年経っても彼女のことを忘れませんでした。
今でも(*2000年前後当時)日本人は私に会うとチャスラフスカのことを尋ねてきます。彼らは彼女のことを賞賛と共にいつまでも覚えているのです。
彼女の存在、名前は1964年の東京オリンピックのアイコンでありシンボルでもありました。つまり、日本人はベラ・チャスラフスカの名前を聞けば、1964年の熱気と活気のあったあの時代の東京を思い出し、胸が熱くなるのでしょう」
*
「1964年の東京オリンピックの成功は、それ以前とそれ以降の日本を大きく変えました。
私の感想ですが、オリンピック以降、日本に一気に外国文化の輸入が増えました。まずテレビでアメリカドラマの放送が増えました。
オリンピックの年に「サンダーバード」「奥様は魔女」「海底大戦争」など日本のテレビで放送が始まりました。
もともと日本人は非常に受容的で、外国の影響をすぐに受け入れる国民性ですが、オリンピックでのチャスラフスカ人気によって、日本人の間でチェコスロバキアの国名が有名になったと、すでに話しましたよね。
チャスラフスカ人気でチェコスロバキアの国が知られ、そして日本人はチェコスロバキアの文化にも興味を抱き、中でも私たちの音楽(クラシック音楽)に興味を持ちました。
日本経済が伸びていることもあり、日本の人々は楽譜を持ってコンサートに足を運び真面目に一音一音を追い、フィルハーモニー管弦楽団や他の音楽グループ、また日本で演奏したヨーゼフ・スークやヴァーツラフ・スメターチェクなどの音楽家の演奏を熱心に鑑賞しました。
チェコスロバキアの作曲家の中で、当時の日本人のクラシック音楽愛好家が最も好んだのはヤナーチェクでした。スメタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェク協会は東京の武蔵野音楽院の一部として、学長福井直四郎の指導の下に設立されました。
日本人も読書家が多いので、彼らはチェコスロバキア文学にも関心を持ちました。フランツ・カフカです。彼らはカフカを賞賛し「チェコ人作家の代表格」と評価しました。
そして信じられないかもしれませんが、ハシュクの『善良な兵士シュヴェイク』の日本語版が最大の成功を収めました。人気が出て売れたのです!
エスペランティストで翻訳者の栗栖圭は、シュヴェイクをエスペラント語ではなく、チェコ語から直接翻訳できるようにチェコ語を学んだことが知られています。チェコ語から直接翻訳した日本語版が売れたのです!
他にはオンドジェ・セコラと彼のキャラクター、アリのフェルダも当時、日本で人気が生まれました。特に人形劇団ラドストが来日してからは、チェコスロバキアの人形劇に大きな関心が集まりました。
他には当時の日本人はボヘミアンガラスにも魅力されました。この時、忘れられない思い出が思い出されます。
私と息子たちが有名な日本の力士の相撲試合を観戦し、最後に優勝トロフィーの授与式を見ていたとき、12,3歳のミロシュが突然こう尋ねました。
『お父さん、なぜ彼らは耳付きの奇妙な壺で賞を授与するのですか?ボヘミアのクリスタルボウルのほうがいいんじゃない?』
これがきっかけで主人はミロシュの思い付きを本国に話し、外務省の承認を得て、やがて美しいクリスタルのボヘミアンボウルが東京に到着しました。
その後、ミロシュが日本語チェコ語通訳として働いたとき、ボウルが作られたジェレズネ・ブロッドに行き、製作者に会いました。
子どもだったミロシュの発言がきっかけとなったチェコのボヘミアンのlクリスタルボウルの記念杯は、今でも相撲力士によって手渡されています。ふふふ」
話は変わりますが、日本で最も有名なチェコ人の建築家と言えば、アントニン・レーモンド(1888年から1976年)です。
建築家ヴァーツラフ・ヒルスキーやアドルフ・ホフマイスターが
『すべての日本人建築家よりも、日本的な家を作り上げているのはレーモンドだ』と評価したことで知られていますが、実際レーモンドは日本全国に素晴らしい建物を無数に建てました。
このレーモンドとはよく会う機会がありました。
レーモンドはとても背が高く、そしてとても変わり者でした。東京のチェコスロバキア大使館のレセプションでスピーチをした時、真っ先に
『私は何よりもアメリカ人と共産主義者が嫌いだ』と言い放ったくらいです。いうまでもなく、チェコスロバキアが共産主義の国だったのに。苦笑」
ミロシュ母、盆栽と落語に惹かれて
「東京の日々は美しい思い出ばかりです」
ミロシュ母は私に何度もそう繰り替えましたが、同じことを様々なメディアのインタビューでもそう話していました。
「オリンピックが終わり時間に余裕ができると、一回目の駐在の時同様、夫と私は日本全国の陶芸家を訪ね、日本陶芸を学び、それらも買い集めて行きました。
見事な日本庭園も見て回りました。それがきっかけで盆栽に精を出すようになったのですが、最初に私たちが盆栽に興味を抱いたのは以前に駐在した北京時代でした。
1953 年の元旦、ミロシュの一歳の誕生日の記念として北京梅の木を購入したことがきっかけで、盆栽の魅力に気が付きはまっていったのです。
日本駐在も終えて帰国した後、プラハで私は中国と日本の庭園と盆栽の講座を開講しました。講義の内容は庭園や盆栽に加えて、お茶の飲み方、花の生け方、仏教および禅の影響を強く受けた他の分野についてです。
正直、あまり期待していませんでしたが驚いたことに、実際に生徒を募集するとあっという間に教室が生徒で一杯になりました。これには驚きました。
その後、1980 年にはペトル・ヘリンクと夫の主導で盆栽クラブが設立され、私は写真家ズデニェク・トーマと協力して日本庭園に関する本を作り上げました。
1981 年にその日本庭園の本のドイツ語版 (合計 6 版) が初出版され、1996 年にはチェコ語でも再販され、読者や読者の間で好評を博しました。ヨーロッパにおける日本庭園への関心を強いものにすることができた、と我ながら自負しています。
話は戻りますが、私たちが日本に住んでいた時、新しい娯楽が続々と生まれていました。
夫と私は東京の劇場や演芸場にも頻繁に足を運びました。私たちは特に落語に夢中になりました。もっとも彼は多忙だったので、たいていは私一人でせっせと上野の演芸場まで通いつめました。
とはいえ、私が落語というジャンルを熱心に関心を抱き始めた当時、それはまだ「立派な」日本学的なテーマではありませんでした。それに落語の研究はやや複雑でした。
なので親切な日本人の落語家たちに協力してもらいながら、落語のテーマに関する日本語の文献もたくさんあったので、それらを大いに参考にし、私は落語について書き続けました。
その結果、私の書いた日本の落語に関する専門記事の多くが、海外の専門紙に掲載されました。落語に関する本『笑いは私の工芸品』(ブロディ、1997年)が出版され、同年に文化省主催の「最も美しいチェコの本」1997年で一等賞を受賞しました。
落語のような娯楽における中国と日本の違いですが、中国ではその規模と人口の関係で、日本よりもずっと多くのジャンルが生み出されています。向こうでは歌と組み合わせた読み聞かせが特に人気でした。
今でもラジオでも聞こえる”相声(シャンシェン)”の漫才は人気です。物語の伝統は揚州の都市と蘇州にもある程度まで残っています。もっとも私は日本落語の方が好みですが、中国落語と日本落語の比較は本当に興味深いです。研究しだしたら、もう止まりません」
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両親が仕事や趣味、勉強研究で忙しくしている最中、中学生になったミロシュは自分の世界を持ち始め、一人で行動することが多くなっていました。小学生の時は家に籠ってばかりいたのに。
まず自分の意志で近所の柔道学校にも通い始めました。背が高く体型もどんどん逞しくなっていたので、柔道は確かに向いていました。
高校生にもなると、日本人の女の子からよくラブレターをもらうようになりました。電車の中や道を歩いていて突然渡されることも珍しくありませんでした。
驚くべきことに、ミロシュ青年は高校生のうちからすでに「結婚」を考えていました。それは親の影響です。両親が若くして知り合い、大学在学中に学生結婚をし、その後ずっとうまくいっているのを見てきているからです。
それにです。その両親が彼に
『できれば結婚は早くした方がいい』
と話していました。
なぜなら両親は早めに伴侶を得たことにより、その後夫婦共々それぞれの勉学・研究そして仕事に没頭することができたからです。それにまだお金もなくてキャリアを積んでいない段階で人生のパートナーを持っていることは、精神的に大きな支えにもなったといいます。
つまり自分たちはとても若いうちに結婚したことが正解だった。だから息子にもそれを勧めていたというわけです。
とはいえ、東京にいるミロシュ青年が知り合う女の子の大半は日本人です。
「日本人との結婚は最初から考えたこともない。当時は外交官の子どもは西側諸国の外国人とは容易に結婚することは認められていなかった。(*ちなみにエジプトでも軍人およびその家族は外国人と結婚できませんでした)
それにだ。いずれにしたって、うまくいくわけがないと思っていた。子どもが生まれたら日本でもチェコスロバキアでも、その子は”浮いて”しまうのが目に見えていた。アメリカやカナダとは違うからだ」
しかしそうは言うものの、東京に住んでいるので年ごろのチェコ人の女の子とはそうそう出会いません。にもかかわらず、母親は
「ミロシュや。お前はしっかりした聡明な子なので、私たち両親のように完璧な結婚をするのに違いないと、夫も私も信じているわ。素敵なチェコ人のお嫁さんを見つけるであろう、と期待しているわよ」
*
16になったミロシュは日本では実際の年齢よりずっと年上に見られることが多く、相変わらずモテモテで、よく知らない二十代の日本人女性からも突然告白されることもありました。
好奇心がありますから、そういった女性たちとデートもしましたが、ミロシュは内気だったのでおどおどしてばかりでした。(*本人談)
それでも日本語が堪能で日本のことわざや慣用句、詩の引用もすらすら口にし、デート相手の日本人女子および女性たちを驚かせ感心もさせました。
ところが面白いことに、ミロシュも彼の弟も、チェコスロバキア人やそれ以外の白人の前では決して日本語を口にすることがありませんでした。
むしろ同じチェコスロバキア人や外国人の前では、自分たちが日本語を話せることを隠しました。
このことをミロシュ母は不思議に思いましたが、本人たちいわく
「日本語を分からないふりをしていたほうが、変わり者に見られず楽だったから」
*
1968年の夏ー
一家は夏の休暇でチェコスロバキアに一時帰国しました。長男のミロシュは16歳、弟は12歳。8月21日の当日も彼らはプラハにおりました。
「プラハの春」、ミロシュ一家迫害される、へつづく